籠の中の

鳥籠の中は狭い。ある程度の自由は許されるがそれだけで、自由と言うには程遠い。
出入口も設けられてはいるものの、鍵がかけられており、こちらから出ることは叶わない。
鉄格子の向こうには広い世界があるというのに、俺はただただ、籠の中から窓の外の青空を見ていることしかできない。
この現状しか知らずにいられたらどれだけ幸せだったのだろう。こんなにも苦しい感情を持つことだってなかったはずなのだから。
窓の外の空を自由に飛びまわる鳥が羨ましい。どこまでも、制限なく飛んでいけるあの鳥が。何者にも縛られないその在り方が妬ましくて、憎らしくて……
同じように紋章を持って生まれたというのに、この違いはなんなのだろう。
紋章に縛られ、振り回される俺はまるで籠の中の鳥だ。

街で先生に声をかけられた。
その辺で引っ掛けて入れ込まれた女の子と劇的な別れをした後だったので声をかけられるまで気がつかなかった。
先生は俺のお遊びの態度が理解できないのか眉間にしわを寄せている。
傭兵として育ってきて、貴族とは無縁に生きてきた先生には紋章持ちとその血を欲しがる女性のことは理解し難いらしい。
彼女たちが現状を脱し、良い暮らしをしようと思えば紋章持ちのお貴族様に取り入るしかない。生まれた子供が紋章持ちならば当主の母親になれる。
求められているのが俺ではなく、俺の血なんだってことはよくよくわかっている。俺も彼女たちもお互い様なのだ。
「ま、血も薄まった今じゃ、産まれるのは兄上みたいな奴ばかりでしょうけど……」
十傑から代を重ね続け、徐々に血は薄くなっていく。同じ血を分けたはずなのに持つものと持たざるものに分かれてしまう。俺と兄上の間にどんな違いがあったのだろうか。
「……昔から紋章持ちってのは人から妬まれると同時に、求められるもんです。俺は俺の血の価値を、俺なりに理解している。……嫌になるほどに」
小さな頃から兄上に妬まれて、父上や領民からは紋章を求められた。ゴーティエの歴史から見ても紋章の重要性は理解している。国境に位置している以上、外敵を排除するためにも力が必要なことくらい、わかっている。
「自由な生き方なんてとっくに諦めた。妬まれるのにも求められるのにも慣れた。俺たちに自由に生きる権利なんてない。……そう思ってました」
俺たち紋章持ちはお家のために結婚し、子供を作り、家を存続させる。領民を、国を守るためにもそれが義務であり、敷かれた線路だ。
「今は違うのか?」
「……あはは、そうですねえ」
あんたが、それを言うのか。先生の言葉に思わず乾いた笑いが漏れた。
「傭兵として、紋章を持ちながら紋章と無縁に生きてきたあんたを見てると妬ましくて、憎らしくて、殺してやりたいとさえ思いますけどね」
自由に生きてこられたあんたが羨ましくて仕方がない。籠の中の俺はただただ、青い空を想像することしかできない。自由に飛び回る鳥に想いを馳せることしかできない。
真剣な表情の先生にどこかでほっとした。
「なーんて。そういう陰のある男とか、女の子に受けると思いませんか、先生!」
先程とは一転して、いつもの調子で言った。先程と変わらない先生の表情に何を考えているのかわからない。この人は表情もあまり変わらなければ、口数も少なく、考えが読みにくくやりづらい。
これで話は終わりのはずだ。いつまでも真剣な表情を崩さない先生に焦れてしまう。
「シルヴァン」
「なんです?」
先生はわざわざ名前を呼んで視線を合わせてきた。お遊びについてのお説教でも飛んでくるのだろうか。暗い青緑色の瞳がこちらを見つめている。
「俺は確かに、紋章や教会と縁遠いところで生きてきた。だからお前には俺が自由に見えるんだろう。けどな、本来何者も人を縛ることはできない。お前も自由なんだ」
その言葉にすっと心が凪いでしまった。目に見えない壁が一枚、目の前を隔てている。
井戸に落とされたことはあるか?
寒い真冬の森に置き去りにされたことは?
幼い頃、異性に執念深く言い寄られたことは?
言ってやりたいことは山程でてきた。しかし、これらを気持ちのままにぶつけたとして、何も変わらないしどうにもならないことを理解している。
あんたは言葉さえも綺麗だ。綺麗事だけで世界を回せると思っている。なんて傲慢なのだろう。
あんたの事が心底、憎らしい。
先生は少しだけ目を伏せた。瞳が閉じられたことにより、ただでさえ長いまつ毛がより長く見える。
「すまない。買い物に出ていたんだった。ではまた、授業でな」
先生はそう言い残して、商店の中へと消えていった。

街で殺してやりたいとさえ思っていると伝えた後も先生は何も変わらなかった。授業での態度も、なにもかも。そのことを誰かに伝えた様子もない。
いつもと変わらない先生の姿に胸を撫で下ろした。あんたなら変わらずにいてくれるって信じていたのだろうか。少なくとも、変わらずにいてくれたことが俺は嬉しい。
先生が何も変わらないということは、俺のお遊びも変わらないわけで。
夜半。こっそり部屋を抜け出した俺は軽いお遊びに興じていた。
酒場で飲食しながら軽くお喋りをして帰る。
飲酒によって火照った体を冷たい風が撫でていく。その心地良さに酒場の外で少しだけ目を閉じた。夜も更けきっていて、頭上では星が瞬いている。良い子のディミトリやイングリットは就寝している時間だ。
帰る道すがら、女性から今晩のお誘いを受けた。しなやかな腕が巻き付き、柔らかな肢体が腕に押し付けられる。ふわりと女性特有の香水の香りが漂った。
「ねえ、もう少しだけ……」
一夜の夢を見たいのか、俺を踏み台にしたいのか判断はつかなかったが、求められている行動はどちらも同じで、そういった面倒事を呼び込むような重たい遊びはごめんだ。
女性の部屋にのこのこ着いていくような真似はしませんとも。
俺は彼女の腕をやんわりと払い除け、笑顔で彼女の誘いを断った。昼間であれば喜んでお茶しましょうね。
門番の集中が途切れた瞬間を狙って、士官学校の中へと帰る。
昼間はあれだけ賑やかな建物が、がらんと物音少なく静けさに満ちている。昼間との違いに不気味さを感じながら自室を目指す。
寮の二階へと繋がる階段の前に人影が見えた。暗がりに溶けるような真っ黒の衣装に身を包んでいるせいで、ここまで近づいてようやっとその存在に気がついた。
雲に隠れていた月がゆっくりとその姿を照らしていく。壁にもたれていた体をおこし、ゆっくりとこちらを向いた。暗い青緑の髪と同色の瞳がこちらを射抜く。
「おかえり。シルヴァン」
発された声は平坦で、表情も動きがない。相変わらず感情の読めない人だ。
先生として夜間外出していた俺を叱りに来たのだろうか。規則を破って外出している俺の素行は良いものではない。先手を打ってしまえ。叱られる前に先に謝ってしまおう。
「すいませんね。今後はもう少し改めますんで……」
発した言葉がだんだんと小さく尻すぼみになっていく。謝罪を重ねようとすればする程、目の前の顔が不思議そうにしているのだ。
先生は考え込むように顎に手を当てて、少し思案する。
「ちょっと待て。俺は別に夜間外出を咎めに来た訳では無いぞ?」
「だったらなんでこんなところに?」
いや、あんた先生だろ!?
一応、規則上は夜間外出は禁止とされている。俺のように規則を破って外出する生徒もいるにはいるが、褒められるような行動ではない。イングリットあたりに見つかればお小言を頂けるだろう。
今度は俺が驚き首を傾げる番だった。
「この間の件、上手く伝わっていないようだったから、もう一度伝えておこうと思って」
この間の一件。街で先生に会った日のことだろう。
「お前を縛っているものはお前が思い込んでいるまやかしに過ぎない。現状に満足できず、足掻いている姿を自由と呼んでいるだけだ」
伝えたいものは伝えたとばかりに先生は満足気に自室に帰っていこうとする。
「いやいやいや」
思わず声をかけ腕を取り引き止めた。
こっそりと抜け出した俺に気が付き、いつ帰ってくるとも知れない中、待っていたなんて信じられるわけがない。
「先生はそれを伝えるためだけこんな夜中にここで待ってたんです?」
「そうだが?」
先生はだからなんだ? と言いたげに首を傾げている。
「夜間外出していた俺を叱らないんですか?」
「お前は遊ぶのが上手いからな。揉め事を起こさないから怒る理由もない。夜間外出は規則違反だが、規則破りぐらいで一々、叱っても仕方ないだろう。そのぐらいの判別はつく年齢だしな」
呆気に取られて開いた口が塞がらない。信じてくれているのか、なんなのか。なんなのだこの人は。
「それじゃあ、おやすみ」
驚き緩んだ俺の手を先生はするりと抜けて、本当に自室へと帰ってしまった。バタンと扉の閉まる音がした。
あの人が何を考えているのか全くわからない。案外なんにも考えていなかったりして。
あの人の意味あり気な行動は全てどこかズレてるからで、特に深い意味はないのかもしれない。呆れて、追いかける気にもなれなかった。
一つだけ大きなため息を吐いた。ため息に合わせるように梟が鳴いている。
夜も相当更けてしまっている。今日のところは素直に自室に帰ることにした。

ある日の平日。先生に呼び出された。訓練場でフェリクスと試合中だった俺はその手を止めて彼の元へと駆け寄った。
相変わらず変化の乏しい顔は何考えているかわかりゃしない。明るい日の光に照らされた青緑の髪はいつもより明るく見えて新緑のようだった。
「お前の教育方針を変更しようと思ってな。その相談なんだ」
先生の手には俺たち青獅子寮の生徒の成績の書かれた手帳がある。先生は頁をめくり、俺の項目の書かれた頁を開いた。
「今週から魔術と信仰を学んで欲しい」
「どうしてまたそんなことを?」
俺が不思議に思うのも無理はなかった。今現在、俺の手には立派な槍が握られており、パラディンを目指すソシアルナイトだ。
「お前には魔術の才も見えるからゆくゆくはダークナイトがいいのではないかと思ってな」
ダークナイト。騎士系兵種の最上級職にあたる。魔法を制御しながら、馬を駆り戦場を走る能力が必要になる。
確かに魔術を専門で学んだことは無いが、そこまでの苦手意識もない。青獅子寮には魔法を得意とするものが少ないから先生の意図は理解出来たが、何故信仰も必要なのだろうか。ダークナイトの資格試験に信仰は必要ないはずだ。
首を傾げながらも問えば「メルセデスの負担を軽くしてやりたくて」と返ってきた。
確かに、メルセデスは青獅子寮の生命線でもある。彼女の祈りが、癒しがなければ撤退を強いられていた場面も思い起こされる。
「まっ、そういうことなら喜んで」
ここのところ彼女に疲労の影が忍び寄っていたのは知っている。先生も一人でも回復役が欲しいのだろう。
「先生、ここにいたか」
先生の向こう側、訓練場の出入口に金色の髪と青いマントが見えた。ディミトリだ。口振りからして先生を探していたようだ。
「話し中にすまない。実は近隣の村から害獣駆除の依頼がきているんだ」
「害獣か」
殿下の言葉に先生は思案している。
「ああ、農作物を中心に被害にあっているらしい。青獅子寮が中心となって解決に当たって欲しいとセテス殿が」
「せっかく育てた農作物を荒らされちゃ敵いませんから」
近隣の村で育てられた野菜は商人の手を通り、いずれは生徒たちの口へと運ばれる。農作物を荒らされ収穫量が減れば、そのまま士官学校の台所事情もがらりと変わってしまう。
脳裏には悲しげに食事を摂るイングリットの妄想が離れない。食べ物に対する拘りも人一倍強い彼女のことだ。口では取り繕うものの表情は嘘をつけないだろう。
「ディミトリはこのままセテス殿へ報告を、フェリクスは出撃準備を頼む。俺とシルヴァンで生徒を探してくる。見つけ次第、フェリクスの元へ向かうように指示してくれ」
ディミトリとフェリクスは頷き、足早に訓練場を出ていった。俺もその後を追い、先生と手分けして生徒を探す。
三十分後にはフェリクスのところへ合流するように言われていたから戻ってみれば、全員が揃い準備を進めていた。
手分けして探していたとはいえ、闇雲に探していては三十分で生徒を揃えることは難しい。それだけ先生が生徒のことを見て、普段どこにいるのか把握しているということだ。彼の真摯な姿勢を慕う生徒も多く寮外からの編入希望の声もあるという。
「全員出られるか?」
「ああ、問題ない」
先生は全員を見渡し確認する。その声にはディミトリが代表して答えた。

村にはそれはもう歓迎された。士官学生とはいえそれなりの大所帯が派遣されたのだから期待以上だったのだろう。
生徒達は何組かに手分けして森に分け入り、罠を設置していく。これで全てを解決出来る訳では無いがましにはなるだろう。何人かは村に残り、畑の柵をより頑丈なものへ作り替えているはずだ。
「ねえ、シルヴァンあれ……」
そばで警戒していたアネットが空を見上げている。指し示す先には煙が立ち上っていた。村のある方角だ。
「メーチェが……!」
アネットは困惑と焦りと心配に染まりきった顔でこちらを見上げている。
メルセデスだけではない。歓迎してくれた村人たちだって危険にさらされている。
「アネット走れるか!?」
「うん、走る!!」
力強い瞳に問題ないと判断し、先頭を走らせ後を追う。
道無き道を行き、木の根を飛び越えたりと、足場の悪い中での疾走にアネットの息もすぐにあがる。それでも彼女は足を止めなかった。
村の外れまで出たところで野盗と生徒の戦闘が始まっていた。近くの家屋には火が着けられていたが、村全体に及ぶほどではない。野盗を討伐した後に解体しても間に合うだろう。
「お願い!」
「おうさ! 行けますよ!」
アネットの声に弾かれ、野盗の一人へと駆け寄り槍を振るう。一度、二度と振るったあと、野盗にはアネットの風魔法が直撃した。
野盗は気絶したようで動かない。手早く両手と両足を締め上げて転がしておく。
「シルヴァン、アネット、無事か!?」
こちらに気がついた先生が駆け寄ってくる。どうやら野盗の襲撃は止められたようだ。こちらが無傷なことを確認すると彼はほっと息を吐いた。
「先生、メーチェは!?」
「メルセデスは村人たちと奥に避難してもらってる」
すがりつくようなアネットに先生は落ち着いて事実を述べた。その姿に彼女も安心したのか胸をなでおろしている。
先生の説明によれば、野盗の襲撃にいち早く気づいたフェリクスとディミトリが出撃し主犯格の捕縛に成功。今は残った残党の捕縛中だったようだ。
先程、俺とアネットで縛り上げた野盗で最後らしい。
「なんと言うか、お互い間が悪いですね」
「全くだ……」
俺たちは害獣駆除だったはずなのに野盗と戦う羽目になり、野盗側も害獣駆除に居合わせた士官学生がいたばかりに壊滅することになった。
先生はため息を吐きつつも、少し口角が上がっている。思いがけないところで俺の言葉が彼に受けたらしい。
転がしていた野盗を俺が担ぎ他の生徒と合流しようかと話をしていた時、村の奥から慌てた様子のアッシュとアメルセデスが駆けてきた。
「先生! 十歳ぐらいの男の子見ませんでした?」
「探してみたけれど、どこにもいないのよ」
村人たちの話ではこちら側の村外れの近くで遊んでいたはずとのことだ。しかし、俺もアネットもここに来るまでの間にその姿を見た覚えはない。俺達が気づかない間に森に逃げ込んだ可能性もある。
「俺が探してこよう。みんなは残って後処理を進めてくれ」
先生はそう言うと子供を探して森へ入って行ってしまった。残された俺たちは彼の指示に従い、片付けを始めることにした。

片付けはほぼ終盤を迎え、あとは先生と子供の帰還を待つぐらいだ。
日も徐々に傾き出している。夜の森は危ない。傭兵として生きてきたあの人を心配するのは杞憂だとわかっているが、些か戻るのが遅い。
今晩の食材を一緒に収集していたドゥドゥーに声をかける。
「ドゥドゥー、悪いがちょっと先生を探してくるわ。殿下に報告しておいてくれ」
「それは構わないが」
「んじゃ、頼んだぜ!」
すぐに帰ってこいと物言いたげな視線は気づかなかった振りをして食材を渡し厩舎へ向かった。俺たちの乗ってきた馬も繋がれている。いつも世話になっている子をひと撫ですれば愛想良く鼻先を擦りつけてくる。準備をして背に跨がればすぐに駆け出してくれた。
森の中、踏みならされた道を馬で行く。驚くくらい生き物の気配がない。なにかから逃げているのか、鳥も兎も見当たらない。
不思議に思いつつも歩を進めていると腹の底から響くような鳴き声が森を震わせた。馬も驚いたようで前足を上げ、足をばたつかせた。聞き覚えがある。魔獣の鳴き声だ。
なんとか馬を宥めていると前方から小さな少年がこちらに走ってきた。行方知れずとなっていた子供だろう。膝や腕には細かい擦り傷があり、顔は涙と埃でぐちゃぐちゃだ。
馬から降り、膝をつき子供の話を聞いてやる。子供は混乱しており要領を得なかったが、どうやら先生一人で魔獣に立ち向かっているらしい。隙をついて逃してくれたが、振り向くなと言われたから何もわからない、と子供は再び泣き出してしまった。子供の肩を抱き、落ち着くのを待つ。背中をさすってやれば徐々に呼吸は穏やかなものに変わっていった。
「俺はさっきの人の様子を見てくるから、一人で帰れるよな?」
少年はふるふると力なさそうに首を左右に振る。
すると合わせたように子供が走ってきた方角から地鳴りのような大きな音が響く。戦闘は先ほどよりも激しさを増しているようだ。
「……一人で戻る」
「偉いな」
俺と一緒に怪物のところへ戻るか、一人で村に戻るかを秤にかけた少年は一人で戻ることを選んだ。その選択を褒めるように頭を撫でれば瞳に力が戻る。よろめきながらも村への道を走り出した少年を見送る。大事に発展したとしても少年が村に戻れば応援が来るだろう。
再び馬へ跨り、地響きのする方へ向かう。
森を抜ければそこは激しい戦闘により広場になっていた。
真ん中には大きな体躯の魔獣が爪を振り回している。対する先生は魔獣に比べると小さな体を活かして死角になるところから少しずつ攻撃している。先生の背中には見慣れない傷が多数増えている。先ほどの子供をかばった傷だろう。あまりのお人好しさに呆れが出る。
魔獣が大きく叫ぶと多数の火炎が降り注ぐ。火炎は地面に着弾すると爆発を起こし土煙が舞う。
シャラシャラと金属が擦れ合う音がした。立ち昇る煙の中から天帝の剣が刀身を伸ばし、魔獣に絡みついている。
天帝の剣。魔獣に対して有効な、先生の持つ炎の紋章と呼応する彼にしか使えない英雄武器だ。
土煙が晴れ、徐々に彼の姿があらわになる。
先生が手を引けば、刃が魔獣の体を刻んだ。しかし決定打にはならなかったようで、その体躯が倒れることはなかった。
魔獣の爪が牙が咆哮が先生を追い詰めていく。傷口が増え艶やかな赤が舞う。あの場に踏み込む何かが足りない。
魔獣が再び大きく吠えた。呼ばれるように幾つもの火炎が先生めがけて降る。立ち昇る煙を振り払うように先生が飛び出した。彼は魔獣の首元へもぐりこみ、その刀身を振り上げた。英雄の遺産は深々と魔獣の首へ埋まっている。
魔獣は身を竦ませるような断末魔を残して大地へと倒れた。魔獣が倒れた衝撃で再び土埃が舞う。
先生の仕草でするりするりと順番に剣は元の形へと戻っていった。
彼の元へと歩み寄る。かすり傷や火傷、土埃にまみれてもなお彼は美しい。血を乱暴に拭う粗野な仕草すら様になる。
なぜ彼は綺麗事ばかりを並べるのだろう。自身の身を危険に晒してまで子供をかばうなんてことをするのだろう。野盗の襲撃の際に行方不明になる子供なんてざらにいる。森に分け入り帰ってこない子供だっている。見捨てる選択肢だってあったはずだ。すぐさま俺達生徒を呼ぶことだってあったはずだ。
あの日、蓋をしたはずの気持ちがぐらりと首をもたげた。
「シルヴァン、助かった」
ぐらりぐらりとあの日の気持ちが渦巻いている。
紋章を持ちながらそんな社会とは無縁に生きてきてたあんたのことが……
自由に生きることができるなんて、知らずにいられれば幸せだったのだろうか。
空を自由に飛び回ることのできるあんたが心の底から羨ましくて。妬ましい。憎らしい。
懐の短刀を抜いた。短刀が西日を浴びて妖しくも美しく光っている。
ふらりと近寄って彼の白い首筋へと短刀を突きつけた。トクトクと流れる鼓動すらも感じられそうだ。
先生はゆっくりと視線を首筋、短刀へと移し、最後にはこちらを射抜いた。西日が彼を照らしている。深緑色の髪に朱色が混じり、日の下で見た時よりも暗く影を落とした。
「どうした? 殺したかったんだろう?」
彼は喉元を晒すように顎を上げる。彼の行為にカッと頭に血が上るのを感じた。殺したいほど憎いと言われていた相手から短刀を突きつけられて、こうも冷静に煽れるものだろうか。呆れが心を満たした。
彼の視線を受け止め、見つめ返す。瞳の奥には他意もなにも見えない。本気で殺さないのかと聞いている。殺されることへの恐怖も悔しさもないのだ。
「はあ……」
短刀を下ろして懐へとしまった。
この人はいつだって裏も表もなく、本気なのだ。本気で生徒と向き合い、生徒の意思を尊重しようとしている。ただ、人との交流少なく生きてきたため、やり方が独特すぎるだけなのだ。
「せーんせ、冗談ですよ」
笑いながら言ってやれば目を皿のようにしてきょとんとこちらを見つめている。
「そうか」
瞬きの隙に先生の顔はいつもの何を考えているのかわからない無表情へと戻ってしまった。
「先生! シルヴァン!」
遠くからイングリットの声が聞こえる。見上げれば沈みきった紺色の空の中に白い天馬が辛うじて見えた。

【いつかの誕生日】

教室の中を初夏の涼やかな風が通り抜けた。じんわりと汗の滲む肌を撫ぜる。襟元を扇ぎ風を送り込めば少しだけ体温が下がった気がした。
この春に青獅子寮に赴任した先生は浮世離れした元傭兵だった。教師をするのは初めてだと聞いていたが、教えるのも上手く、生徒達に慕われだしている。まだ二ヶ月しか関わっていないが悪い人間ではないことはシルヴァンもわかっていた。
暗い緑を落としたような濃紺の髪が風に揺れている。髪と同色の瞳は手元の教本に落とされていた。切れ長の涼やかな目元が印象的な美人。女性だったのならすぐさま声をかけていただろう。
「では、今日はここまで」
彼の声に少し遅れるようにして鐘が鳴る。途端に教室内は喧騒に包まれた。教材を片付ける音、椅子をしまう音、生徒たちの話し声。
お昼は何にしようか。なんて会話が聞こえてきたものだから釣られてお昼の献立を考えてしまった。ビーフシチューなんてどうだろうか。
とろみのある黒いスープに浮かぶ人参とじゃが芋。長く煮込まれた牛肉は口の中でほろりとほどける。隠し味に入れられたワインが深みのある味に仕上げている。硬めのパンをスープに浸せば、大きめの空洞をスープが満たすだろう。ぱくりと口に運べば、小麦の風味とビーフシチューのコクが合わさり広がっていく。
お昼の献立はこれにしよう。ビーフシチューで決まりだ。
片付け始めた教材の上に影が落ちる。見上げればベレト先生がこちらを見下ろしていた。
「シルヴァン、これを」
そう言って手渡されたのはラベンダーの花だった。丁寧に刈り取られたラベンダーは切り口に綿が巻かれており、子供が喜びそうな可愛らしい包装紙で簡易的に包まれている。細い茎の先で艶やかに咲く紫色の小さな花弁が美しい。ラベンダー独特の香りがふわりと広がった。
「今日が誕生日だろう? 花を贈るといいと聞いたから」
先生は何も無い空間をちらりと流し見たが、すぐに視線をこちらに戻した。
「ありがとうございます。部屋に飾りますね」
まだ学生ではあるものの、こんな年にもなって誕生日プレゼントを貰うなんて思いもしなかった。
深く息を吸えば胸の中に香りが満ちる。ゆっくりと落ち着くような気がした。
赴任してすぐだというのに、生徒の誕生日を把握し贈り物をする。なるほど確かに。生徒達に慕われるのもわかる気がした。

【貴方とワルツを】

季節は星辰の節。秋も過ぎ、冬が深まりゆく季節だ。
教室のそばの中庭では生徒たちが思い思いに休憩している。鈍く重い空は日の光を届けてくれず、雪でも降りそうな気配があった。
夏は暑くて嫌いだが、雪の降るような冬も好きにはなれなかった。真冬の井戸の水は突き刺さるように痛かった。信じていたはずの兄に突き落とされたショックから泣くことも、叫ぶことも忘れてしまっていた。あの冬を思い出してしまう。
「シルヴァン、魔法の習得進度は順調か?」
担任のべレト先生が変わらずの無表情でこちらに歩いてきた。片手にはいつもの手帳がある。生徒達の進捗を確認して回っているのだろう。熱心な先生だ。そんなところが彼が多くの生徒に慕われる原因なのだろう。
「先日、アローを使えるようになったところですよ」
アローは風を操る魔法の一種だ。炎の方が幾分か得意ではあるもの、どうにか扱えるようにはなった。
彼はふむふむと頷きつつ、手元の手帳に書きつけている。
「それよりも今は舞踏会ですよ。対抗戦の白鷲杯もあるんですよね?」
先生は走らせていた筆をピタリと止めた。心なしか焦っているようにも見られた。いつもの無表情なので気のせいかもしれない。
「で、先生。俺たちの学級からはどいつを出すんです?」
深緑の瞳がこちらをじっと捉えた。
「頼めないだろうか?」
「え、俺?」
思わず聞き返してしまった。先程と変わらない新緑の瞳がこちらを捉えている。
「はあ、まあ、別にいいですけど。女の子にいいとこ見せる機会だしな」
先生は俺の言葉に少しだけ口角を上げ、雰囲気を和らげた。表情の乏しい男だが、よくよく観察していればその違いにも気がつけるようになった。
「じゃあ、練習しよう」
「え!? 今からですか?」
先生が真顔で言うものだから驚いて聞き返す。何か問題でもあるのか?とでも言いたげにこちらを見つめるばかりだ。俺に予定があるとか考えないのだろうか。実際に予定は無いので問題もないのだが。
「構いませんけど……」
先生は手帳を仕舞うと両手を胸の位置で広げた。どうやら手拍子で拍を取ってくれるらしい。
彼の前で舞踏の構えをとる。左手を上げる。右手は女性の肩に手を添えるように胸元に。
「一、二、三、一、二、三……」
たんたんたん。たんたんたん。
まずは基本的なステップを。
先生の手拍子に合わせて右足を出す。次に左足を滑らせるように出し、方向を変える。三歩目は左足に添えるように置く。回りながら円を描くようにステップを踏む。以前習ったっきりで修道院に来てからは踊ったことがなかったが、それなりに覚えているもんだ。足を縺れさせることもない。
「きれいだな……」
「!?」
手拍子を打つ先生の瞳がゆるりと上気する。端から見ている俺でもわかるほどに彼は喜んでいる。深緑の瞳が揺らぎ、輝いている。熱のこもった視線が刺さる。
「男にそんな熱心に見られても嬉しくないですよ」
彼は俺の言葉を聞いて、はたと正気に返ったようにいつもの無表情に戻ってしまった。
「いや、その、シルヴァンがあまりにもきれいに踊るものだから、頼んでよかったなと」
彼の言葉にじわりと暖かくなる。今は真冬の屋外だというのに。
踊りの足を止めれば、額にじわりと汗が滲む。
「先生って踊れるんですか?」
「踊りとは無縁の傭兵業だったからな」
まあ、予想通りの答えではある。
「あんた顔はいいんだし、踊れるようになっておいて損はないと思いますよ」
少なくとも大司教に目を付けられている以上、政治に引っ張られるのは明らかだ。それに何より、生徒の誰かが彼を誘うだろう。別の寮からの変寮希望の生徒もいたという。彼がそれを断っている場面に遭遇したこともある。
「そういうことなら少しだけ、基本的なものだけでいいから教えてくれないか?」
「俺の方がでかいですし、練習になるかどうかわかりませんよ?」
「構わない。俺がシルヴァンと踊りたいんだ」
「そんな言葉どこで知るんですか……」
「メルセデスの貸してくれた本で」
「生徒にそんなこと言っちゃダメですよ。勘違いするやつがでますから。特に女生徒には」
「気をつけよう」
わかったのかわかっていないのか。気の抜けたような返事だった。
「では、左手を上げてください」
上げられた先生の左手に右手を重ねる。ゆっくりと優しく握れば、緩やかに返された。
「右手を相手の肩甲骨へ添えるようにしっかりと支えてください」
先生が右手を添えたのを確認してからもたれるように上体を反らす。
「それが基本の姿勢です」
先生は興味深げに自身の左手と俺の肩口を見比べている。
「ステップは知ってます?」
「さっきシルヴァンが踊っていたものなら少しだけ覚えた」
上々である。
「好きに踊ってみてください。合わせますよ」
こちらで拍をとれば、彼は足を踏み出した。先程、俺が見せていたステップの冒頭三種を綺麗に踊ってみせる。飲み込みは良い方だとは思っていたがここまでとは。素直に感心する。
涼やかな瞳を伏せられたまつ毛が縁どっている。普段と変わらぬ無表情だ。女生徒の中には彼に夢みている者も多い。いつもと変わらないように見えるが、重ね合わせた手から緊張が伝わる。化け物の様な強さと無表情に忘れがちだが、彼も人なのだ。はじめてのことに緊張だってする。
意識して口にする拍を遅くすれば、手の平から伝わる緊張が緩まる。しばらくすれば拍を口にしなくても息が合うようになった。
「俺がいつまでもこちらで踊っていればシルヴァンの練習にならないな」
先生は足をゆっくりと止めた。離れていく先生の左手を名残惜しげに握ろうとして踏みとどまった。その時になってようやっと自分が踊ることを楽しんでいたのだと気がついた。
「変わろう」
先生は俺が何か言うのを待たずに姿勢を解き、今度は右手を掲げた。
「あんたねぇ、絶対混乱しますって。やめた方がいい」
「大丈夫だ」
力強く見つめ返す先生に仕方なく付き合うことにする。なんだかんだ我の強い彼はきっと折れない。
左手を差し出せばそっと右手で握り返される。右手で肩甲骨のあたりを支えればしなだれるように上体を任された。
「では三数えた後にさっきのステップをお願いしますね」
先生が縦に首を振ったのを確認してから数え始める。
「一、二、三。一、二……」
ぐらり。先生の体躯が大きく傾いた。重ねた左手で引き上げようと力を込めたが遅く、先生は地面に倒れ込んでしまう。
「ほら、言ったでしょう?」
芝生に尻をついたままの先生に右手を差しだし、ぐっと勢いよく引き上げた。
先生が転けた原因は単純に女性側の踊りに変換できなかったことだ。男性側が踊れたからといって女性側が踊れるとは限らない。左足を踏み出すべきところで右足を引かなければならないのだから、転んで当然だ。
「シルヴァンは女性側を踊ったことあるのか?」
「いやさっき初めて踊りましたけど?」
「お前はもっと真面目に授業を受けろ」
責めるような目付きが鋭く刺さる。くどくどと長くなりそうなお小言に思わず明後日の方向へ視線を投げた。
空は未だに重い雲を敷き詰めている。

【籠の中の 〜五年後〜】

あの襲撃から五年の月日が流れた。五年というのは存外に長く、俺たちは学生という身分もなくなった。
帝国軍の侵攻を抑えるために自身の領地へと戻り、国内を駆け回る日々を送っていた。
書簡と物資を持ってフラルダリウスを訪れた際、見覚えのある背中が見えた。
金色の髪に浅葱色の戦衣装、イングリットだ。なにやらフェリクスと打ち合わせをしているようだった。
フェリクスの視線がこちらをちらりと捉える。笑顔で手を振ってやれば、あからさまな舌打ちの後に目を逸らした。そんなフェリクスの様子を見たイングリットがこちらを振り向いた。短い髪が後を追うようにふわりと舞う。
「やはり貴方だったのね。シルヴァン」
忙しさからか少しやつれた様子が見えるものの、彼女は穏やかに笑う。
「今丁度、フェリクスと五年前の約束について話していたのよ」
「ああ、そういやもうそんな季節か」
赤狼の節も終わろうとしている。冬も厳しさを増し、約束したあの日が近づいていた。
この時期に領地を遠く離れるのは気がかりだが、生徒たちがバラバラになってしまった以上、この機会を逃せば会うことはないだろう。
「修道院には盗賊が出るって噂もあるけど?」
「フンッ……盗賊程度でお前はどうにかなるとでも思っているのか?」
がしゃり。フェリクスが自身の腰にある剣に手をかけながら言う。それに、とフェリクスが言葉を続けた。
「お前は修道院にならいると思っているんだろう」
図星だった。この五年、行く先々で透き通るような新緑を探したが見つからなかった。修道院にならいるのではないか。それがずっと頭の中で引っかかっていた。
「なんでもないように振舞っていたけれど、シルヴァンが一番気にしてたわ」
思い返してみてもあの頃の記憶は朧気で確たるものは何も出てこない。
「先生の話題は露骨に避けるし」
「夜遊びが減ったと従者から聞いたぞ」
「そうだったか」
イングリットとフェリクスに言われてもう一度思い返すも覚えがない。イングリットは微笑んでいるし、フェリクスは悪態でもつきたそうに睨んでいる。
幼い頃から長い時間を過ごしてきた二人が言うのだ。当時はどこかおかしかったのかもしれない。いつもの調子ではないのは確かだろう。

月が隠れていた夜だった。もう見慣れなくなってしまった森は静かで、跨る馬の小枝を踏む音がやけに大きく聞こえた。隣にはフェリクスが、見上げればペガサスに乗ったイングリットがいる。
遠くで怒号が、武器と武器がぶつかり合う音が聞こえた。争いの元へ向かうため、フェリクスの走る速さに合わせるように馬を並走させる。
駆けつけた先は森が拓き、修道院だったであろう廃墟が広がっていた。幾人もの盗賊と探し続けていた二人が背中を合わせて戦っていた。先生や陛下の向こう側にアネットやメルセデス、アッシュの姿も見えた。
「修道院が盗賊のねぐらになっているとは……同窓会の余興にしちゃ、手が込んでるなあ!」
既に戦い始めてから幾らか経っているようだった。槍を構える。
あの頃と変わり果ててしまった姿と、あの頃となにも変わらない新緑の髪に胸が込み上げる。
「先生……やはり、生きて……!」
「……手を貸してやる。とっとと片づけるぞ、話は後だ」
三人の声に気がついたディミトリがゆるりとこちらに視線を向けた。生きていた。また会えた。その喜びが体を駆け巡る。こんな所で死なない。死なせられない。
「お前たち……そうそうに終わらせるぞ……」
ディミトリの声に弾かれたようにフェリクスが飛び出した。素早い身のこなしと流れるような剣筋に盗賊達が倒れた。
攻撃しては少しだけ身を引いていくイングリットにヤケになった盗賊が嵌められているとも知らずに後を追って行く。
陛下からの命令もある。槍を手に廃墟の中へと足を踏み入れた。中は瓦礫と石の山だった。崩壊してから人の手入れなど入っていないのだろう。あちらこちらで雑草が生えている。
通路の向こう側から懐かしい人影がこちらに向かって走ってくる。
春先の芽吹いたばかりの新芽のような髪は彼しかいない。黒い鎧は土埃まみれだがあの頃となんにも変わっていなかった。つり上がった美しい目尻を少しだけ緩めて穏やかに名を呼ばれた。
「シルヴァン……」
「まったく、五年もどこ行ってたんです? それなりに心配したんですからね」
「すまない」
彼の声色は大層嬉しそうで、つられたようにこちらの声も上がってしまう。心配されたことが嬉しかったのか、珍しく見てわかる程に微笑んでいる。
「フェリクスもイングリットも心配していましたから、ちゃんと顔見せてあげてくださいね」
「わかってる」
俺の言葉に頷いた彼はひらりと手を振って、盗賊団を探しに別の区画へ移動しようとする。それをすんでのところで呼び止めた。もしも次会えれば聞きたいと思っていたことだった。この五年、考えても答えなんて出やしなかった。
「先生は、先生はどうして綺麗ごとや理想を言い続けるんです?」
先生は事あるごとに夢のように綺麗な理想を並べ続けることがある。悪人にも並々ならぬ事情があるだとか、争いごとのない紋章の有無も富める者も貧しき者もすべてが平等な世界にしたいだとか、平気で真顔で言うのだ。真顔は標準的な表情だが。そんな絵空事が叶うなんて子供だって信じちゃくれない。
世の中は汚く、理不尽に塗れている。あの日、俺が兄上を殺したように。あの日、俺達が先生を失ったように。ある日唐突に目の前へと現れる。
それなのに、どうしてそこまで綺麗でいられるのか。信じることができるのか。
彼は悩むようにしばし考えるとゆっくりと口を開いた。
「世界は汚い。争いごとはなくならないし、今もどこかで誰かが死んでいっている。俺はそれらを傭兵としてごく身近で見て生きてきた」
なるべく誤解をさせないように。なるべく、自分の伝えたいことがそのまま伝わるように。彼にしては珍しく言葉を選びながら話している。
「だからこそ、俺は絵空事のような綺麗なものを信じていたいんだ。世の中が綺麗じゃないなんて誰だってわかっている。だから、理想を口にしていたいんだ。唱え続けていればいつかは本当になる日が来るかもしれない」
彼の視線は手元の天帝の覇剣へと移り、俺の背負う破裂の槍へと注がれる。
「俺もお前もこれを置く日が来るといいな」
それは争いもなく、紋章の有無で差別されることのない世界なのだろう。

ロドリグの死を皮切りとし、復讐を振り切ったディミトリは王都奪還のために忙しなく動いていた。ディミトリの家臣であるシルヴァンもやることはあったが、主人ほどの忙しさはなかった。
食堂で昼食をとっている際、ふと気がついてしまった。
最近、先生と飯を食べていない。というか最近先生の姿を見ていない。
学生の頃も再会してからもなにかと食事に誘われることが多かった。お茶会にも何回呼ばれたことか。それがここ最近ないのである。
一つ気がつけば連鎖式に先生の不可思議な行動を思い出した。少数の人員のみを連れ立って出て行くことが増えた。何をしていたのか先生に聞いてみても「付近の盗賊を倒してきた」と答えるだけだった。帰還後の仲間の姿を見ても少しの外傷と汗と血と砂埃に塗れているだけで、戦闘を行なったことに嘘は無さそうだ。
昼食を腹に納めてから先生の姿を求めて修道院内を探し回るがあの美しい新緑を見つけることはできなかった。王国軍の主だった人員は全員修道院にいる。行方が知れないのは先生ただ一人だった。
さすがに軍の長は先生の行先を知っているだろうと陛下に話を聞きに行けば「魔術の練習をしに森に出ているはずだ」という。
森に分け入り広場を目指す。森の中に少し分け入れば広場がある。訓練所や闘技場で広さが足りない場合は森の広場を使っていた。たぶんそこだろう。
広場に辿り着いたが人影はない。木材で作られた案山子には真新しい焦げた跡がある。先ほどまでここで練習していたのは間違いない。
鳥の群れが大勢で羽ばたき森を震わせた。ここからではまだ遠いが森が揺れている。大きな怪物が暴れているような、そんな……
もしや先生はあの騒動の中なのでは。
嫌な予想が頭をよぎる。いやいや、そんなわけはない。俺がここに来るまでに入れ違いになって帰ってしまったに違いない。
どんっ。再び森が揺れる。
先ほどの予想を否定するだけの材料を持ちえない。少しだけ、少し確認してから帰ろう。
音の発生源へと向かう。音はもうすぐそこだ。木立の合間から覗き見れば、鮮やかな新緑が舞うように魔獣の合間を縫っている。
こちらとは反対側の木立には商人と思しき男性が焦りと不安を敷き詰めた顔で先生を見つめていた。どうやら魔獣に襲われていた商人をかばい一人で魔獣の囮を買って出たのだろう。
視線の先では先生が魔獣二匹を魔術だけで引き付けている。大きな外傷を受けそうなものは避け、小さなものは割り切って受けて反撃に転じているが大きな打撃とはなっていない。先生はどうして天帝の剣を使わないのか。いつもは腰にあるそれが今日に限ってない。
踏み込む何かが足りないまま、先生の傷が増えていく。流れる血が先生を汚していく。
俺はまたここで立ち尽くしているだけなのか。自由に見えている先生だってこうして足掻いて足掻いて道を切り開こうとしているのに。その努力の末に手に入れた自由だというのに。
なら、俺はそれほどまでに、あの人ほど足掻いただろうか。どうにもならない、今の自分ではどうにもできない現実にただただ諦めただけなんじゃないか。
魔獣が健在な中、先生はついに魔法を構えていた手を下ろした。
先生が死ぬ?
先生を助けられないのか?
ここでもまた諦めるのか?
「先生!!」
背負っていた破裂の槍を手に木立を飛び出した。何か策あっての行動ではない。考えに考えたって瀕死の先生と二人で魔獣をどうにかする手段はちっとも思いつかない。
それでも飛び出して魔獣と先生の間に体を滑り込ませた。今までたくさん諦めてきた。仕方がない、どうしようもない、そんな風に考えてきた。だが彼も足掻いているのだ。自分も精いっぱい足掻こう。口にする絵空事がただの理想でなくなるように、願いながら、信じながら。
「シルヴァン、か……」
「ええ、ええ。俺ですよ。かわいい女の子じゃなくてあんたと一緒に死ぬなんてごめんですから、立ってくださいよ」
槍を魔獣へと突き付けながら警戒を解かずに話をする。背後にいる先生の顔は見えないが声が少し安堵したように感じた。
「シルヴァン、破裂の槍を持って前へ。一匹ずつやるぞ」
「はい!」
先生の声に弾かれるように魔獣へと接近する。下段に構えていた破裂の槍を勢いよく上段まで振り上げる。振り上げた槍を魔獣の肩のあたりから斜めに切り裂いた。
バリン。
硝子の割れるような音と共に魔獣の装甲の弱まりを感じる。
そこへ流れるように先生が銀の剣を一度、二度と滑らせる。銀の剣の切れ味の良さに魔獣の体躯が傾いた。
倒れかけた体躯を魔獣はすんでのところで立て直すと大きく吼えた。咆哮に呼び寄せられたように頭上から火炎が降り注ぐ。幸いにして大きな外傷はないものの、こんなものを何度も撃ち込まれては耐えられない。再度、雄叫びをあげれば、弱まったはずの装甲が回復する。
もう一匹の魔獣の爪が先生を捉え、弾き飛ばした。俺よりも小さな体はいとも簡単に吹き飛び、木へと激突する。駆け寄ろうと一歩足を踏み出したその時。
「吼えた方をやれ! すぐに行く!」
気絶を免れるために咄嗟に口を噛んだ先生の声が飛んできた。
駆け寄ろうと踏み出していた足を反対に向け、魔獣へと向き直る。破裂の槍を構え直し攻撃する。
力を込めて一閃。横へ振るう。破裂の槍での攻撃で魔獣の装甲が割れた。それを確認してから左へと下がる。
そこへ持ち直した先生が走る。走り込んだ勢いそのままに魔獣へと力強く剣を振るう。
「信じるもののため!」
重みのある魔獣の体躯が後退し、力なく倒れた。魔獣が消え去るのを確認する間もなく、もう一匹の魔獣の爪が先生に迫る。見ていられず、思わず体が動いた。
先生の体に体当たりをし、吹き飛ばす。避けることとかなんにも考えていなかった俺の左腕に魔獣の鋭い爪が食いこみ引き裂いた。鮮やかな赤が視界に弾ける。
「シルヴァン!!」
先生の聞いた事のないような悲痛な叫びが聞こえた。珍しいものを聞いちまったな。思わず笑いが零れた。
傷の負っていない右腕にはまだ槍を握っている。大きな傷なんて狙わなくていい。魔獣の装甲を割れればいい。
魔獣の大きな体躯へ破裂の槍を突いた。その体躯に突き刺さりはしなかったが、バリンと硝子の割れるような音が装甲の弱まりを知らせる。これで先生の攻撃が通る。すぐに距離を取るために後退した。
先生の持つ銀の剣が翻る。魔獣の体躯に鮮やかな赤い筋がまた一つ、二つと刻まれた。痛みから魔獣が爪を振るい暴れだす。それらを先生はひらりと避けた。
ウオオオオオ……!
魔獣の苦悶の叫びが装甲を再生させる。これで通常の攻撃が通りにくくなった。
「まったく、あんたが天帝の覇剣を置いてこなければこんなに苦労してないんですからね……!」
「それに関しては何の申し開きもできないな……」
こちらの発した嫌味に先生はくすりと笑いをこぼした。魔獣から受けた傷は未だに痛みを訴えているが嫌味を言うだけの、それを笑えるだけの余裕が戻りつつあった。
先生がこちらに両手をかざす。淡く温かな光が立ち昇り前髪を揺らした。みるみるうちに腕の出血が止まり、痛みが引いていく。
「完全に治すことはできないが、止血と痛み止めぐらいにはなるだろう」
破裂の槍を両手で握りなおす。痛みはすでになく、傷を負っている腕の使い勝手も悪くない。
「無茶はするなよ。俺では傷を治しきることができないからな」
先生の言葉に頷きを返し、魔獣へと接近する。下段に構えた槍を斜め上の上段へ振り上げる。そうして振り上げた槍を勢いを殺さぬように袈裟切りに振り下ろした。
魔獣の悲鳴が大きくこだましていく。もう残った力もあまりないのだろう。精度を欠いた攻撃は後ろに下がることで避けた。
振り下ろされる爪へ突っ込んでいく影が一つ。下段で構えられた銀の剣がぎらりと煌いた。
先生の攻撃を受け、ついに魔獣は力なく地面に倒れ伏す。
返り血や泥に塗れても女神のような彼の美しさは微塵も損なわれることはなかった。剣についた血を乱雑に落とし、鞘へと戻す仕草はとても様になる。
「ありがとう、シルヴァン」
先生は普段は吊り上がった涼し気な眦を緩めて、穏やかに微笑んだ。
比較的珍しくもなくなってきた微笑みに胸が暖かくなる。本当に彼が無事でよかった。もう二度とあんな思いはごめんだった。
「ありがとうございます!! 助かりました!!」
伸ばしかけた腕を走り寄ってきた商人たちに邪魔をされる。戻した手のひらを眺めて、伸ばしかけた意味を考えるも、泡となって浮かんではすぐに消えていってしまう。
どうにも商人たちの話を聞いていると、行商先への移動中に魔獣に襲われていたところ、悲鳴を聞きつけた先生が助けに入り囮となったようだ。
練習中の慣れない装備で囮役を買って出るなと言ったところできっと聞かないのだろう。そもそも囮になるなと言いたい。
先生は商人達に感謝され離してもらえないようだ。助けてほしいと訴えるような視線がたびたび飛んでくる。助けた責任として甘んじて受けて欲しい。
森を出たところでふと空を見上げた。広く、遠く広がる青空はどこまでも続いている。吹き抜ける風が優しく髪を撫でた。
今ならあの時の先生の言葉を理解できる気がした。

「ああ、クソッ、いってぇ……」
自室に戻り、左腕から走る痛みに顔を歪めた。
魔獣二体を先生と二人で撃退し、無事に修道院へ戻ってくることができた。助けた商人は感謝の気持ちを述べ、たくさんの商品を格安価格で置いていった。
先生のライブで止血はされ、医務室で医療を受けたが、完全な治癒には至っていない。包帯の下の腕は未だざっくりと裂けている。
「……先生。あはは、わざわざ見舞いに来てくれるなんて、優しいんですねえ!」
ノックの後に扉を開ける気配を感じて振り返ってみれば先生が立っていた。悲しげな表情をしている。
廊下に棒立ちさせる訳にもいかないので部屋へと通し、椅子を勧めれば腰を下ろした。
「怪我の具合は……」
「や、たいした怪我じゃないですよ。明日には戦線にも復帰できるって言われましたしね」
先生がしょげてる原因はどうやら、現在痛みを訴える左腕にある。先生を庇い、傷を受けたことに心を痛めているようだ。
「それにほら、あんたのために受けた傷だし? 勲章みたいなもんでしょう」
おどけたように励ましてみせれば、幾分かは重荷が降りたようだ。だが、しかめっ面が解けない以上、まだなにか気にしていることがある。
実際、この先生が危機に陥ることなんてそうそうあるものではない。そこへ駆けつけ庇ったのだ。傷が癒えて跡がなくなっても忘れることは無いだろう。
「自分を庇って良かったのか」
なんだ、そんなことか。先生の悩み事だ。一体どんなものだろうかと構えたが、拍子抜けだった。
「……本当にあんたが殺されちまうと思ったら体が勝手に動いたって言うかさ。だけど正直な話、あんたが羨ましいって気持ちは、今でも変わってませんよ」
素直に本音を零せば、驚いたように目を見開いた先生がいる。
「あんたを見ていると、憧れずにはいられないんです、俺は。家を出奔する度胸があれば、あんたみたいな紋章とは無縁の生き方もできたのかな、って」
「度胸がなかった?」
「……そうさ。逃げ出そうと思えば、逃げ出せたんですよ。ゴーティエの家からも、紋章を持つ貴族の運命ってやつからも」
籠に閉じ込められていると、鍵がかかっていると思い込んでいたのは自分で、そんなものは最初から無かったんだ。誰だって生まれた時から自由で、自分を縛り付けるのは自分でしかない。
「……うちの実家は、王国の最北にある。山の向こうは異民族の住む土地でして。昔はファーガスの従属化にありましたけど、王国が倒れた今、いつ戦いになるか……」
王都の奪還を目指しているが、フォドラのいざこざが終わるまで待ってくれる保証はどこにもない。フォドラ内部に注視している今だからこそ攻め込まれる可能性だってある。
「何しろもう何百年と争ってきたわけで。その間うちの家はずっと、防衛の要だった。あ、いや、うちの兵士や将がっていうよりもゴーティエ家の遺産、破裂の槍がね」
「五年前の……」
「……あの時は、割と危なかったんですよ。一歩間違えれば教団に槍を没収されていた。父上は槍を教団に取り上げられるのを恐れて修道院にいる俺に槍を渡し、万一のことがあったら、俺を領地に呼び戻すつもりだったんでしょうね」
先生はなるほどと納得したような顔で静かに話を聞いていてくれる。
「ま、そんな事情もあるからか、うちの家は特別紋章を大事にするんです。紋章を持っている俺は、両親からそれはそれは大事に育てられてきた。けど、紋章を持たない兄上だとかは、俺が生まれたのを契機に一気に冷遇された」
その冷遇っぷりは子供心に覚えている。父上や母上の視線の違い、付けられた従者の数を覚えている。
「……兄上には井戸に突き落とされたことも、真冬の山に置いていかれたこともあります」
「やり返さなかったのか」
先生は不快そうに眉を寄せる。やられたらやり返すを信条にしてそうな人から返ってきた想像通りの返答に思わず笑みが零れた。
「ガキなりに理解していたんですよ。俺は兄上からすべてを奪っちまったって。紋章が欲しくても手に入らなかった奴の前でつらいだなんて言えるかよ、って話です」
紋章は生まれ持ったものだ。どれだけ手を伸ばしても、欲しいと願っても、無いものにその力が発現することはない。
「だから、女たちの粘つく視線も、俺を値踏みするような令嬢たちの視線も、笑って、受け入れなきゃならなかった。……俺には紋章がありましたからね」
「それは違う」
そう、先生の言うように違うのだ。はっきりと否定をしてくれる真っ直ぐな瞳に暖かなものが広がる。この人はいつだって必要な言葉をくれる。
「ああ、もう遅いけど、わかってますよ。一言、嫌だって言えば良かったんだ」
言えていれば、こんなことにはなっていなかった。その一言が言えなかったから鳥籠に囚われていた。一言そう言っていれば俺は外を知ることができたのに。
「とにかくあんたを恨むのは筋違いだった。……本当に、すみませんでした」
深く頭を下げて謝った。彼は何も言わなかったが、頭を上げた時に見た彼の顔が構わないと言っていた。
「それから、ありがとう、先生」
さっと先生の頬に朱が走る。きっと本人は自身の頬が赤いことすら気づいていない。突然の感謝の意味を理解しきれずに先生は首を傾げている。
「あんたと出会えてなかったら、俺は一生他の生き方ってのを知らないままだった」
きっと、籠の中でひたすらに諦めて過ごすような人生だった。先生と出会えたから空を見上げて羨むようになった。先生と一緒にいたからこそ、こうして籠の外の世界を、自由を知った。
あんたと出会うんじゃなかったと思ったこともあった。それでも……
「……今は、本当に、心の底から先生に会えて良かったと思ってますよ」

アドラステア帝国が滅亡し、ディミトリがファーガス神聖王国の王となってから暫く経った。相変わらず混乱は続いていたが徐々に落ち着きを取り戻し始めている。
戦時下を共に走り抜けた教え子達が一人、また一人と家庭を持っていく。
先日なんかはメルセデスとアッシュが夫婦になると手紙が来た。予定が合えば是非とも式に来て欲しいとのこと。
もちろん、仕事の都合をつけて駆けつけた。
純白の洋服に身を包んだメルセデスはそれはそれは美しかった。幸せそうに満たされた微笑みをたたえて皆の祝福を受け止めていた。
騎士となりガスパール領を治めることを認められたアッシュにも数多の災難が降りかかるだろう。だが、二人が手を取り合えばどんな困難だろうと乗り越えていける。
一人、また一人と教え子たちが俺の手を離れていく。その門出を祝えることはとても誇らしい。
ただ、一つだけ悩みができてしまった。ゴーティエの領地を継ぎ、今は領主となったシルヴァンもいつかは伴侶を得るのだろうか。あの逞しい腕で女性を抱き、あの声で蜜語を交わすのだろうか。
それはとても寂しく、受け入れ難いものだった。

しんしんと降り積もる雪を踏みしめながらファーガス最北の土地を目指す。いてもたってもいられず、急ぎの仕事を片付け、馬に乗り大修道院を飛び出した。今頃セテスの怒号が響いているだろう。
ゴーティエの街は復興も進み、ほどほどに栄えていた。王都ほどの盛り上がりはないが、平和なことに変わりはない。領主の腕の良さが窺えた。
時期に日も沈み始める。今日のところは宿でも借りて明日、領主邸を目指そう。そう決めて宿を探し始めた時だった。
艶やかな橙の髪が人混みの向こうに見えた。領民との交流に興じていたようだったが、こちらの姿を認めた途端、見たことないような驚きの表情を乗せてこちらへ飛んできた。
「え? どうしてあんたがここに? 連絡なかったですよね?」
「悪い。連絡もなしに来てしまった」
「驚きはしましたけど……宿はもう決まってるんです?」
否定の意味でふるふると首を横に振ればシルヴァンの顔に喜びが浮かんだ。
「ならうちに来てくださいよ」
シルヴァンの言葉は願ってもないことだった。丁度、シルヴァンに相談したくてこの地を訪れたのだから。
「しばらく泊めてもらえると助かる」
「構いませんよ。あんたは俺たちの先生なんだ。遠慮しないでください」
シルヴァンの言葉に甘えてしばらくの間、ゴーティエ領に滞在することとなった。領邸への道をシルヴァンと並んで歩く。
暖かなコートに身を包み、白い息を吐くシルヴァンは以前よりも落ち着いた印象を受けた。領地を治める責任ある地位に就いたからなのか、年を重ねたからなのか、はたまた以前は見ることのなかった服装を見たからなのか。理由は定まらなかった。
穏やかに、そして他愛のない話が続く。書類を間違えてセテスに怒られた話。フェリクスをからかって遊んでいたらキレられた話。イングリットが天馬騎士団を設立した話。本人から手紙で聞いていた話もあったが、シルヴァンの視点で語られるそれらに耳を傾けた。
領邸は広く手入れが行き届いていた。雪の降る真冬なので庭に花は咲いていなかったが、春が待ち遠しいと訴えている。
「滞在中はここを使ってください」
通された客間は絢爛豪華な調度品はなく、品のいい単調な調度品が大半を占めていた。暖炉と机と寝台が置かれており滞在中に困ることもなさそうだ。
「ありがとう」
後ろを振り返り、シルヴァンに感謝を伝えればそっと顔を逸らされてしまった。
「いえいえ、どういたしまして。俺はもう少し仕事が残ってますんで、離れますけど大丈夫ですか?」
「相談事があるんだ」
「先生に悩み……?」
シルヴァンは信じられないとでも言うように眉根を寄せた。返答にこくりと頷く。
「仕事終わってからでも構いませんか?」
再び頷く。
「あとで温かい紅茶でも淹れさせますんで、待っててください」
シルヴァンはそう言い残して扉の向こうへと消えた。
ゴーティエ家の従者が持ってきた紅茶はそれなりに楽しめた。冷えてしまった体が温まる。ほっと人心地をつき、鞄から便箋と封筒を取り出した。
仕事を放り出して出てきてしまったことへの詫びをしたためた。手紙の内容が懺悔じみてきたあたりで扉を叩く音がした。
「先生、入っても?」
扉を開ければ部屋着へと着替えたシルヴァンが立っていた。椅子をもう一脚机の傍に用意する。シルヴァンを中へ通せば、柑橘系の紅茶の香りが漂った。
「長くなりそうですし、新しいものを淹れてきたんです」
シルヴァンの手には盆に乗った茶器がある。茶器の先からは白い湯気が立ち昇りその熱さを主張していた。
シルヴァンが杯へと紅茶を注ぐ。杯へと注がれた赤茶色の液体は温かな湯気と柑橘の香りを振りまいている。
「普段は先生がもてなす側でしたから、なんだか変な感じですね」
彼の言う通り俺が主催として茶会を開くことは多々あったが、シルヴァンの淹れた紅茶を飲むのは初めてかもしれない。
杯に口をつければ熱さに慄いた。ゆっくりと口に含めば少しの渋みと爽やかさが広がる。
シルヴァンは俺が杯に口を付けたことを確認すると用意していた対面の椅子へと腰をおろした。
「それで、悩みってのはなんなんです?」
「最近、生徒たちが結婚し、家庭を持っていくだろう」
「そうですね」
シルヴァンの脳裏にも先日のアッシュとメルセデスが浮かんでいるだろう。
「シルヴァンが伴侶を見つけて家庭を築いていくのかと思うと妬ましくて憎らしくて殺してやりたいとさえ思う」
俺の言葉にシルヴァンは紅茶を噴出した。
「あんた実はソレ気に入ってたりします!?」
シルヴァンはむせ返りながらも慌てて噴出した紅茶を拭いていく。
「でも、言いたいことは本当なんだ。シルヴァンが伴侶を得て誰かに蜜語をささやくのかと思うと仕事も手につかなくて」
「それで大修道院を飛び出してきた、と……」
シルヴァンの言葉に静かに頷いた。するとシルヴァンは顎に手を添えて考え込んでしまう。徐々に頬に赤みが走り、耳も真っ赤に染まってしまった。
「いや、あの、その……」
煮え切らない態度のシルヴァンは珍しい。思わずまじまじと見てしまう。
こほん。シルヴァンは一つ咳払いをして仕切りなおした。
「俺からは非ッ常に言いにくいんですけれど……」

先生、俺のこと好きなんじゃないんですか?

告げられた言葉に勢いよく首を傾げた。大げさに傾げたものだからシルヴァンが慌てたように頭を支えてきた。
「俺が、シルヴァンを……?」
「ええ、あんたが俺を」
納得しきれず紅茶をすする手が止まらない。
「例えばですよ、俺が街の女の子を口説いていたらどう思いますか?」
「今日も元気だなって」
シルヴァンが脱力したように肩を落とした。
「そうではなくってですね。嫌な気持ちになりませんか?女の子を口説かないでほしいとか、こっちを向いてほしい、とか……」
シルヴァンの言葉をもう一度追いかけて想像する。シルヴァンが美しい女性へと声をかけている。女性も満更でもなく楽しそうだ。
もやりと胸の中に霧が立ち込める。
「シルヴァンの言うように確かに嫌だ。けれどそれを言ってしまえばシルヴァンを縛ってしまう」
縛られて生きてきたシルヴァンにそんなことだけはしたくないし、言いたくない。
杯を口元へ運ぶが紅茶はすでに飲み干したあとだった。シルヴァンの手が伸びたかと思えば、杯に紅茶が満たされた。
「あんたなら構いませんよ」
満たされた杯から再び紅茶をすすっていたが、シルヴァンの言葉に手が止まった。
「シルヴァン、それは一体どういう……?」
「あんたはもう少し意思疎通能力を磨くべきです」
真顔で問い返せば責めるような口ぶりで返された。
「俺も先生のことが好きってことですよ」
「へー……」
「へーって……」
呆れたようなシルヴァンの声を聞きながら紅茶と茶菓子を摘まむ。さくさくと口の中でほどけていく焼き菓子を紅茶で流せば、紅茶の豊かな風味とバターの風味が口の中で混ざり合う。
シルヴァンが俺のことを好きなのか。
先ほどのシルヴァンの言葉を反芻してようやっと意味を正確に理解した。
「俺の言葉の意味を分かってます?」
責めるような拗ねた口ぶりから逃れるように焼き菓子に右手を伸ばす。それを咎めるようにシルヴァンの両手が俺の手をそっと包むように握られた。
指の一つ一つを解き、間に指を差し込まれぐっと握りこまれた。
「女性を口説くのなんて訳ないんだが、本気ってどう言えば伝わるのかわからないな……」
シルヴァンはぼやきながらも握りこんだ手を離してくれようとはしなかった。逆に握り込む力は強まる。
「俺にとってあんたは特別なんです。イングリットやフェリクス、陛下よりも。先生もそう思ってくれてませんか?」
生徒達一人一人の顔を思い浮かべる。誰も彼も大切な教え子達であることに変わりはない。けれど、目の前の男ほど特別だろうか、大切だろうか。何者にも変え難い存在はこの騎士ただ一人ではないだろうか。
いつまで見ないふりをしているつもりじゃ! この大馬鹿者!
あの日消えてしまった幼い少女の声が響く。
お主の心の底にいるわしにも、こやつが愛おしいのだと聞こえてきおるわ! 自分の気持ちに鈍いにも程がある!
少女の叱責にお礼を告げれば、安心したのかまた眠りについた。
シルヴァンはただじっと俺の言葉を待っていた。祈るように、信じるようにこちらを見つめている。
「そうだな、俺もシルヴァンが一番特別だ」
会えなかった五年の間にさらに遠のいた頭へと自由な左手を伸ばす。ここに来るまでに風呂にでも入ってきたのだろうか。湿り気を帯びた橙の髪を撫でれば満足感が広がった。
撫で付けていた手を離せば、シルヴァンは脱力したように机に突っ伏した。
「本ッ当にあんたブレませんね。ここはそういう雰囲気でしょう」
「ああ、接吻されると思ったのか」
「ええ、そうですよ! 期待しましたとも!」
握られていた右手を解き、両の手で拗ねてしまったシルヴァンの頭を撫でる。癖のある髪がくるりと指をすり抜けていく。
「毎日整えてるんですからやめてくださいって!」
耐えかねたシルヴァンががばりと上体をおこし、反撃に出る。シルヴァンの両手が頭へと伸び、それはもうわしわしと頭を掻き乱された。
張り合うようにシルヴァンの頭を撫でる手の激しさが増していく。
暫く無言で頭を撫であった後、ほぼ同時に笑いが零れた。
「あーー…… いい歳してなにやってるんだか」
「全くだ」
手櫛で自身の髪を整えていれば、同じように髪を整えるシルヴァンと目が合った。お互い、それだけで満たされる。目を細め、眉尻を下げて花が綻ぶように微笑まれた。
「そういえば、先生は気づいてました?」
シルヴァンの言葉に首を傾げる。一体なんの話なんだろうか。
「学生時代からの話なんですけどね。先生ってば俺のところに来る度に幸せそうに笑ってたんですよ」

【パーフェクトバースデーティータイム】

爽やかな初夏は過ぎ去り恵みの雨の季節が徐々に迫ってきている。クロードからの急使が救援要請を持ってきたことにより王国軍は再びあわただしくなっていた。
朝食時に食堂で先生から声をかけられた。
「昼の休憩時に部屋まで来てほしい」
問題ないと返答すれば、先生は用件を聞く間もなく去ってしまった。学生の頃もこんな有様だったし、ここ最近はさらに悪化してきたため慣れてきてしまっている。あまり良くない傾向ではある。
昼休憩。先生の部屋の前を訪れた。扉は閉ざされているが人の気配はある。
コンコン。扉を叩いて来訪を告げた。
「はいはい。お待たせしましたよ、先生」
開かれた扉の先にはいつもの茶器が揃えられている。紅茶には湯気が登っており、淹れたてであろうことが伺えた。茶器の傍には山盛りの焼き菓子が用意されている。
先生に招かれて席に着く。今日もお茶会のお誘いだったようだ。
「先生、良い趣味してるじゃないですか。俺もこの茶葉、好きなんですよ」
鼻をかすめた香りは柑橘の精油で香りづけされたものだ。自身の好む茶葉が用意されていると嬉しい。
杯を満たす赤茶の液体は杯の中で揺らめいている。焼き菓子の包み紙を外してから口に運ぶ。ふわふわと空気を抱えた焼き菓子は甘く、混ぜ込まれた果実が甘酸っぱく弾けた。流し込んだ紅茶が柑橘の爽やかさを運んでくる。
いくつか代り映えのしない世間話を興じた。歌劇の話や学校生活の思い出、一緒に食べたい料理など。実りのない話ばかりだ。
先生は無口だが相槌はうつし頷きもする。楽しかった頃の話には微笑み、褒められたことではない話には眉をしかめた。初対面の人間には無表情に見える細やかな変化に気がつけるようになったことが、とても……
「ほんと、物好きですよね、あんたって。……あんたがそういう人で、良かった」
普通、殺したいと言われた相手と茶を飲むだろうか。食事にも誘われた。授業では殊更目をかけてもらった。そんな先生だからこそ救われた。
じーっと見つめる視線が擽ったい。
「シルヴァン今日が誕生日だろう?」
言われてからようやっと気が付いた。本日は花冠の節五日。誕生日だ。
忙しさから誕生日のことを忘れていたのは確かだが、祝われるとも思っていなかったため誕生日のことを気にしていなかった。
先生はごそごそと戸棚を探ると奥から盤上遊戯の箱をを取り出した。見たことの無い遊戯に興味が尽きない。
「推奨人数は四人から五人でな。二人でやると面白みが少ないかもしれない」
手渡された箱を開けてみれば敷板と沢山の駒が入っている。
「読み合いの必要な遊戯だから、きっと気に入ると思う」
「今度アネット誘ってみるんで、相手してくださいよ」
「ああ」
アネットとは休憩の際に盤上遊戯で遊ぶ仲だ。めきめきと上達しており、その発想には度々驚かされている。先生も苦戦することだろう。
「先生、ありがとうございます」
素直に感謝を口にすれば、先生の瞳は緩み、蕩けてしまいそうなほどうっとりと微笑んだ。
誕生日を祝われることがこんなに高揚するものだとは思わなかった。盤上遊戯が好きなことを覚えていてくれたのが堪らなく嬉しい。

【夏花】

夏の日差しが海辺を照らしている。きらきらと光を反射して輝いていた。どこまでも広がっていくデアドラの空は抜けるように青く、白く大きな入道雲が浮かんでいる。
夏真っ盛りのデアドラは観光客でごった返していた。着替え中にはぐれてしまった先生を探して更衣室を出てきたが、特徴的な新緑の髪はなかなか見当たらない。
せっかくの旅行だというのに、どこに行ってしまったのか。
「こんにちは~!」
「お兄さんお一人ですか?」
先生を探していると女性の二人組に声をかけられた。黒髪の女性と茶髪の女性。二人とも俺より少し年下だろうか。胸を強調するような水着に求めるような熱い視線。あまりにも身に覚えがありすぎる。これ軟派だ。
「いや~~恋人と来てるんだけどはぐれちゃって」
何とか絞り出した拒否の言葉も彼女達は意に介さず、ぐいぐいと押してくる。
きょろきょろと砂浜を見渡せば、ようやっと見つけることができた。手洗い場の近くの木陰で木に凭れて休んでいる。
「すみませんねえ。恋人がみつかったから……」
女性達には詫びを入れてからその場を離れた。人混みを通り抜け、熱気をかいくぐりベレトの元を目指す。
拭ってもすぐに滲む汗を前にして、こんな時期に来るんじゃなかったかなとすでに後悔し始めていた。
「すみません、はぐれちゃって……」
真夏の海。照り付ける太陽。旅行で訪れた浜辺にはうきうきとわくわく、楽しいことが盛りだくさん、のはずである。
誰だよ、先生にこんなにぴっちぴちの水着を渡したのは。
明らかに布面積の少ないそれは見事に股間のみを覆っており、真っ黒な布がぴたりと張り付いている。
ベレトはこちらの声に気がつくと、ゆっくりとこちらを見上げた。その顔が何とも幸せそうに弾けるものだから、つられたように心が満ちる。
いやでも、さすがにその水着はない。
切れ長で涼し気な眦と表情の少なさから大層な美人であるのに、視線を下にずらせば股間を強調するような水着である。
「その水着どうしたんです?」
「アンナに水着が欲しいと相談したら大量に見せられてな。よく分からなかったから一番泳ぎやすそうなこれにしたんだ」
この人はそういう人だ。お洒落よりも機能性や実用性といったものを重視する。例外があるとすれば茶会ぐらいのものだろう。
「変、だっただろうか……?」
さすがに水着を凝視しすぎた。ベレトの心配そうな声に我に返る。
「いえいえ、ベレトらしくていいと思いますよ!」
せっかくの旅行だ。細かいことを気にして台無しにするのも勿体ない。なにより陛下とセテス殿が気を利かせてくれた休みだ。
笑いながら言えば、ベレトは安心したのか胸を撫で下ろした。
「ん? 今、名前を……」
「これを機に名前で呼ぼうと決めてたんです」
「もっとたくさん呼んでくれ」
求められれば素直に応える気が遠のいていく。
「ベレトベレトベレトベレトベレトベレトベレト」
「雑な感じではなく、もっと心を込めて。なんでもない日常の中で見つけた幸せのような声で」
要求が細かい。しかも淡々と喋るあんたがそれを言うか。
「これから先、いくらでもあんたの名前を呼ぶ機会はあるんだから……」
「ずっとそばに居てくれるのか」
「ええ、そういうことです」
冬の頃から比べればベレトも少しは学んだようだ。解答を教えれば、ベレトの口角が上がり、ゆるりと目が細められた。少しの変化だが、とても喜んでいる。
「ほら、せっかくの海なんですから」
ベレトの手を取り、海へと駆け出した。人を掻き分け目指していく。太陽に熱された砂浜は鉄板のように熱く、足の裏をじわりじわりと焼いている。
海を目前として唐突にベレトの足が止まった。繋いでいた手を使って勢いよく海へと放り投げられる。
景色がゆっくりと遠のいていく。海へと背中から落下する直前、はっきりと見えたのはベレトの楽しそうな顔だった。

午前中はひとしきり海で遊び倒した。ベレトは海を訪れたことがあったようだが海水浴はお互い初めてで、遠くまで泳いだり、深くまで潜ってみたりと他愛のない遊びで時間はすぐさま流れていった。
遊びすぎて時間を忘れていたが、丁度昼時を知らせる鐘が鳴る。空腹を自覚すればくるりと腹の虫が声を上げた。
そうして、海の家で昼飯を食べようという話になった。
海の家は海水浴客で込み入っていた。空いている席は少なく、出て行こうとしている客と入れ替わるように席に着いた。
「さて、何食べます?」
メニューにはサンドイッチなどの軽食が多く、氷菓子まで揃っている。夏場ということを鑑みられてかグラタンやシチューなどはメニューから外されていた。
「じゃあ……」
ベレトの指さした料理を確認してから、店員を呼び注文をする。しばらくすれば料理が机に並べられた。
フィッシュサンド、白身魚の甘辛炒めのサンドイッチ、芋の揚げ物。ザクロやベリーのシャーベットにメロンソーダフロート。海が近いこともあり魚の味に期待してしまった。
白身魚の甘辛炒めのサンドイッチに大口を開けてかぶりついた。白身魚と干しトマトを香辛料で甘辛く炒め、生のキャベツと一緒にパンに挟んである。
こんがりと表面を焼かれたパンは香ばしい小麦の匂いをたてている。白身魚の味付けは濃く、パンやキャベツと一緒でも負けていない。シャキシャキと音を立てるキャベツも口当たりがいい。
「結構、美味いですね」
「シルヴァン、口の端にソースついてる」
紙布巾を持ったベレトの手が一瞬止まった。数秒、仕掛けの止まった人形のように停止した。
「ベレト……?」
「いや、なんでもない……」
ふるふると頭を振り、何かを吹き飛ばしたベレトの手が口元へのびる。真っ白な紙布巾には赤いソースがついていた。
「一口いかがですか?」
「いいのか?」
「ええ、かわりにあんたの一口くださいね」
こくりと頷くベレトにサンドイッチを差し出した。ベレトはもみ上げを耳元で抑えて、身を乗り出してサンドイッチにかぶりつく。
その仕草に、伏せられた目に、どきりと心臓が跳ねた。
美人は三日で飽きるという言葉もあるが、この女神のような美しさを持つ恋人に慣れる日はあるのだろうか。
「少し辛いな」
「あれ? 辛いの駄目でしたっけ」
学生時代まで振り返ってみても、この人は割となんでも食べる。選り好みすることなく、生徒達と食卓を囲んでいたはずだ。
「いや、そういう訳じゃない。少し驚いただけだ」
「確かに香辛料に慣れてなかったら驚きますよね」
自身のサンドイッチを咀嚼する度にキャベツがシャキシャキと音を立てる。芋の揚げ物を口に放り込めばほくほくと崩れていく。そこへメロンソーダを流し込めば炭酸が弾けた。
「シルヴァンそれは?」
ベレトの視線は手に持つ緑色の液体に注がれている。
「メロンソーダフロートですよ。メロンの果汁を炭酸で割って着色したものです。そこにバニラアイスを乗せたからフロート」
自分のとは別のメロンソーダフロートを手渡せば、中の氷がからりと鳴った。
ベレトは受け取るとストローに口をつけた。青緑色の液体がストローを駆け登る。
「!? しゅわしゅわする……」
初めての体験なのだろう。ベレトは目を皿のようにしている。
「こっちの方がいいな」
ベレトは匙を手に取るとメロンソーダに浮かぶアイスに手をかけた。白いアイスを楽しむベレトの口が幸せそうに緩んだ。

昼を食べた後は浮き輪を借りた。近くの小島まで泳ぎだし、海に浮かぶ。浜辺から離れたからか海水浴客はほとんどおらず、静かなものだ。小島では蝉が合唱大会を開催しているようだ。
浮き輪に座るように仰向けで乗っているから、腕や足を太陽の日差しが焼くように照りつける。
こんなところに連れてきて何がしたかったのか。連れてきた本人のベレトは浮き輪の中から頭だけ覗かせて浮かんでいる。表情は穏やかで、戦闘時の激しさは微塵も見られない。
「なあ、こうして海に浮かんでるだけだが、楽しいんですか?」
あたりには何も無く、あるのは穏やかな波と小島と蝉の鳴き声だけだ。
俺の声にベレトの新緑の頭が浮上する。
「シルヴァンと一緒だからな」
ベレトの言葉は裏も見えなくて、顔に熱が集中する。
「シルヴァンと一緒ならなんだって楽しい」
重ねるように告げられた言葉に恥ずかしさから海水を飛ばせば、するりと避けられてしまう。
「あんた、本当にそういう言葉どこで覚えてくるんですか。冬の頃とは大違いだ」
「……秘密だ」
少しだけ悩む仕草を見せたものの、結局ははぐらかされてしまった。
「今朝、軟派されてただろう?」
「見てたんなら声かけてくださいよ」
「シルヴァンがかっこいいと持て囃されるのは自分のことのようでうれしかったんだが、沢山の目がシルヴァンを見てると思うと嫌な気持ちになった」
つまるところ、ベレトは嫉妬していたのだ。自身の心の機微にうんと疎いこの人はこの事実に気づいているのだろうか。
「先生、それって」
「ああ、海水浴客に嫉妬していたんだろうな」
こちらが解答を出す前に自分で解いてしまった。べレトが人の心を理解する日も近づいているのではないだろうか。
「シルヴァン戻ってる。ちゃんと名前で呼んでくれ」
拗ねるような声に浮き輪の中を覗き込めば、鼻の下あたりまでもが海に沈んでいる。恨みがましそうに睨んでいた。
「べレト、機嫌なおしてくださいよ」
好きです。愛してます。誰よりも特別なんです。
自身の中から溢れる気持ちを順番に言葉にしていく。これまで女の子達に対して軽々しく言葉にしていただけに、何よりも特別なべレトに言うのを憚られていた。女の子達のように軽い気持ちととられてしまいたくなかったからだ。
べレトがゆっくりと浮き輪の中から顔を覗かせた。いつかのように無表情で抱いている感情を窺い知ることはできない。浮き輪から腕を出し、鍛えられていた上半身があらわになる。
視界にあった抜けるような青空と白い入道雲が消えて新緑が広がった。頬にべレトの両手が添えられ、唇が重なる。手入れのされていない、少しかさついた唇は塩の味がした。
「いたっ……」
どうやら歯をぶつけたらしい。少しだけ血の味がし、唇にはひりひりと痛みがある。
「へたくそ」
離れていくべレトの顔を後頭部に手を回して引き留める。仰向けの自分から迎えにいくことはできないものの、歯を当てないようにそっと優しく合わせた。
彼は一体どんな顔をしているだろうか。
湧いて出た興味を無視することができなかった。ゆっくりと目を開ければ蕩けるような新緑とかち合った。目は潤み、目尻には朱が走る。獣の様な雰囲気を滲ませていた。
見たことのないベレトの様相にぞくりと背筋に何かが走った。
衝動に流される様に舌を割り入れた。歯列をなぞり、舌を絡め合わせる。水音は波が攫って行ったが、それでも体内で響き続ける。
口の端から溢れていく唾液を気にすれば、舐めとられた。
もっと、もっとと求めるように唇が押しつけられる。それに応えようと唇を開いたら、ぐらりと揺れた。
日差しに焼かれ、熱を持ち始めていた肌が海水によって冷やされていく。視界は青一色に染め上げられた。
海面から顔を出せば、ベレトが心配そうに見つめている。午前中に海に放り投げたことを反省しているらしい。
「悪い……」
「俺が乗ったんだ。ベレトが謝ることないです」
ベレトの曇った表情が少しだけ晴れる。
「ベレトさえ嫌じゃなければ、またしてください。興味がないって言ってたあんたが興味を持ったんだ。拒む理由なんてないでしょう?」
「ありがとう」
こちらの言葉にベレトが嬉しそうに目を細めた。

日も沈み、濃紺の空には星が瞬いている。天気も良く、風向きも良好。
夕方ごろには海から引き上げ、夕食も済ませた。宿での夕食は海鮮料理が多く、地形の差か実家のゴーティエ領では見かけない魚ばかりだった。
東方の異境より伝わったという服に袖を通す。前が開いており、左側の合わせを右脇下の紐と結び、右の合わせを上にし、左脇下の紐と結ぶことで前を止める。肌触りも良く、ゆったりとしており風を通しやすい。夏場の暑い土地に適した服だ。腕を振れば、短い袖から風が抜けていく。
「準備できましたか?」
「ああ」
振り返ると同じように甚平を身に纏ったベレトが立っている。深い緑に黒の縦縞がベレトの涼やかな印象を引き立てている。深緑の衣が以前の髪色にとてもよく似ていた。
「どうかしたのか?」
ベレトの気遣う声にはたと我に返る。
「いやあ、何着せても似合うなと」
「それはシルヴァンもだ。特に緑が似合う。昼間の水着も緑だった」
「ありがとうございます」
昼間の水着は黒を基調としており、差し色に深緑が使われている。今着ている甚平も緑に変わりはないが、灰色がかった青緑だ。似合う色というのはある程度決まってくる。どうしても緑を手に取りがちだ。
「ほら、花火大会が始まっちまう」
手を差し出せば、指の間にベレトの指が差し込まれた。貝殻が合わさるように握り込まれる。
「……吹っ切れましたね」
それはつまり世にいう恋人繋ぎと呼ばれる類のものである。ベレトからこうした行動をとるとは思わなかったため、正直驚いている。
「花火、楽しみだな」
意識しているのはこちらばかりだ。手を握り返せば、部屋から連れ出される。ベレトの顔は凪いだ海のように穏やかで、これから先の未来では手を触れ合わせることが日常になっていくのだろう。
肌を焼くような太陽が身を隠し、昼間に比べればずいぶんと過ごしやすい気候になっている。誰も彼もが隣人に夢中でこちらのことなんて気にもしていない。
どんっ。
空が震える。見上げた先には大輪の光の花が咲いた。一つ、二つと花は増え、花束が出来上がる。
自然と足は止まり、二人で並んで花火を見上げた。
花は様々な色を見せる。青、赤、黄。咲いては枯れていく。風向きも良好で煙はすぐさま流れていき、後には光の花だけが残った。
隣のベレトの顔を盗み見れば、花火の光が真剣な瞳の中で反射し煌いている。
「綺麗、ですね……」
「そうだな」
花火に心を奪われたようでぼんやりと呆けた声が返ってくる。
「ベレト」
名前を呼べば煌く宝石が瞬きによって隠される。ゆるりとベレトの顔がこちらを向く。長いまつ毛に彩られた宝石がこちらを射抜いた。
胸に込み上げる気持ちを何と名付けようか。どんな言葉なら伝わるだろうか。
「愛してる」
求めていた、口にしようとしていた言葉が新緑から聞こえた。言葉数の少ない彼の瞳が、態度が雄弁に語っている。
「俺も、愛しています」
彼の気持ちに応えるように、繋いだ手に力を込めた。