籠の中の

超刻印の誇り2020 8/22
「籠の中の」
ベレト×シルヴァン
A5 本文52ページ

あらすじ
蒼月ルートのベレト先生のお話。
籠の中のから先生を見上げて自由に思いを馳せるシルヴァンとお前だって自由なんだぞと説く先生がくっつくまで。
短編に学生編と五年後の誕生日の話と白鷲杯へ向けて練習するベレト先生とシルヴァンのお話を収録。
くっついた後に夏のデアドラへ旅行に行く話。


『籠の中の 〜学生編〜』

鳥籠の中は狭い。ある程度の自由は許されるがそれだけで、自由と言うには程遠い。
出入口も設けられてはいるものの、鍵がかけられており、こちらから出ることは叶わない。
鉄格子の向こうには広い世界があるというのに、俺はただただ、籠の中から窓の外の青空を見ていることしかできない。
この現状しか知らずにいられたらどれだけ幸せだったのだろう。こんなにも苦しい感情を持つことだってなかったはずなのだから。
窓の外の空を自由に飛びまわる鳥が羨ましい。どこまでも、制限なく飛んでいけるあの鳥が。何者にも縛られないその在り方が妬ましくて、憎らしくて……
同じように紋章を持って生まれたというのに、この違いはなんなのだろう。
紋章に縛られ、振り回される俺はまるで籠の中の鳥だ。

街で先生に声をかけられた。
その辺で引っ掛けて入れ込まれた女の子と劇的な別れをした後だったので声をかけられるまで気がつかなかった。
先生は俺のお遊びの態度が理解できないのか眉間にしわを寄せている。
傭兵として育ってきて、貴族とは無縁に生きてきた先生には紋章持ちとその血を欲しがる女性のことは理解し難いらしい。
彼女たちが現状を脱し、良い暮らしをしようと思えば紋章持ちのお貴族様に取り入るしかない。生まれた子供が紋章持ちならば当主の母親になれる。
求められているのが俺ではなく、俺の血なんだってことはよくよくわかっている。俺も彼女たちもお互い様なのだ。
「ま、血も薄まった今じゃ、産まれるのは兄上みたいな奴ばかりでしょうけど……」
十傑から代を重ね続け、徐々に血は薄くなっていく。同じ血を分けたはずなのに持つものと持たざるものに分かれてしまう。俺と兄上の間にどんな違いがあったのだろうか。
「……昔から紋章持ちってのは人から妬まれると同時に、求められるもんです。俺は俺の血の価値を、俺なりに理解している。……嫌になるほどに」
小さな頃から兄上に妬まれて、父上や領民からは紋章を求められた。ゴーティエの歴史から見ても紋章の重要性は理解している。国境に位置している以上、外敵を排除するためにも力が必要なことくらい、わかっている。
「自由な生き方なんてとっくに諦めた。妬まれるのにも求められるのにも慣れた。俺たちに自由に生きる権利なんてない。……そう思ってました」
俺たち紋章持ちはお家のために結婚し、子供を作り、家を存続させる。領民を、国を守るためにもそれが義務であり、敷かれた線路だ。
「今は違うのか?」
「……あはは、そうですねえ」
あんたが、それを言うのか。先生の言葉に思わず乾いた笑いが漏れた。
「傭兵として、紋章を持ちながら紋章と無縁に生きてきたあんたを見てると妬ましくて、憎らしくて、殺してやりたいとさえ思いますけどね」
自由に生きてこられたあんたが羨ましくて仕方がない。籠の中の俺はただただ、青い空を想像することしかできない。自由に飛び回る鳥に想いを馳せることしかできない。
真剣な表情の先生にどこかでほっとした。
「なーんて。そういう陰のある男とか、女の子に受けると思いませんか、先生!」
先程とは一転して、いつもの調子で言った。先程と変わらない先生の表情に何を考えているのかわからない。この人は表情もあまり変わらなければ、口数も少なく、考えが読みにくくやりづらい。
これで話は終わりのはずだ。いつまでも真剣な表情を崩さない先生に焦れてしまう。
「シルヴァン」
「なんです?」
先生はわざわざ名前を呼んで視線を合わせてきた。お遊びについてのお説教でも飛んでくるのだろうか。暗い青緑色の瞳がこちらを見つめている。
「俺は確かに、紋章や教会と縁遠いところで生きてきた。だからお前には俺が自由に見えるんだろう。けどな、本来何者も人を縛ることはできない。お前も自由なんだ」
その言葉にすっと心が凪いでしまった。目に見えない壁が一枚、目の前を隔てている。
井戸に落とされたことはあるか?
寒い真冬の森に置き去りにされたことは?
幼い頃、異性に執念深く言い寄られたことは?
言ってやりたいことは山程でてきた。しかし、これらを気持ちのままにぶつけたとして、何も変わらないしどうにもならないことを理解している。
あんたは言葉さえも綺麗だ。綺麗事だけで世界を回せると思っている。なんて傲慢なのだろう。
あんたの事が心底、憎らしい。
先生は少しだけ目を伏せた。瞳が閉じられたことにより、ただでさえ長いまつ毛がより長く見える。
「すまない。買い物に出ていたんだった。ではまた、授業でな」
先生はそう言い残して、商店の中へと消えていった。

街で殺してやりたいとさえ思っていると伝えた後も先生は何も変わらなかった。授業での態度も、なにもかも。そのことを誰かに伝えた様子もない。
いつもと変わらない先生の姿に胸を撫で下ろした。あんたなら変わらずにいてくれるって信じていたのだろうか。少なくとも、変わらずにいてくれたことが俺は嬉しい。
先生が何も変わらないということは、俺のお遊びも変わらないわけで。
夜半。こっそり部屋を抜け出した俺は軽いお遊びに興じていた。
酒場で飲食しながら軽くお喋りをして帰る。
飲酒によって火照った体を冷たい風が撫でていく。その心地良さに酒場の外で少しだけ目を閉じた。夜も更けきっていて、頭上では星が瞬いている。良い子のディミトリやイングリットは就寝している時間だ。
帰る道すがら、女性から今晩のお誘いを受けた。しなやかな腕が巻き付き、柔らかな肢体が腕に押し付けられる。ふわりと女性特有の香水の香りが漂った。
「ねえ、もう少しだけ……」
一夜の夢を見たいのか、俺を踏み台にしたいのか判断はつかなかったが、求められている行動はどちらも同じで、そういった面倒事を呼び込むような重たい遊びはごめんだ。
女性の部屋にのこのこ着いていくような真似はしませんとも。
俺は彼女の腕をやんわりと払い除け、笑顔で彼女の誘いを断った。昼間であれば喜んでお茶しましょうね。
門番の集中が途切れた瞬間を狙って、士官学校の中へと帰る。
昼間はあれだけ賑やかな建物が、がらんと物音少なく静けさに満ちている。昼間との違いに不気味さを感じながら自室を目指す。
寮の二階へと繋がる階段の前に人影が見えた。暗がりに溶けるような真っ黒の衣装に身を包んでいるせいで、ここまで近づいてようやっとその存在に気がついた。
雲に隠れていた月がゆっくりとその姿を照らしていく。壁にもたれていた体をおこし、ゆっくりとこちらを向いた。暗い青緑の髪と同色の瞳がこちらを射抜く。
「おかえり。シルヴァン」
発された声は平坦で、表情も動きがない。相変わらず感情の読めない人だ。
先生として夜間外出していた俺を叱りに来たのだろうか。規則を破って外出している俺の素行は良いものではない。先手を打ってしまえ。叱られる前に先に謝ってしまおう。
「すいませんね。今後はもう少し改めますんで……」
発した言葉がだんだんと小さく尻すぼみになっていく。謝罪を重ねようとすればする程、目の前の顔が不思議そうにしているのだ。
先生は考え込むように顎に手を当てて、少し思案する。
「ちょっと待て。俺は別に夜間外出を咎めに来た訳では無いぞ?」
「だったらなんでこんなところに?」
いや、あんた先生だろ!?
一応、規則上は夜間外出は禁止とされている。俺のように規則を破って外出する生徒もいるにはいるが、褒められるような行動ではない。イングリットあたりに見つかればお小言を頂けるだろう。
今度は俺が驚き首を傾げる番だった。
「この間の件、上手く伝わっていないようだったから、もう一度伝えておこうと思って」
この間の一件。街で先生に会った日のことだろう。
「お前を縛っているものはお前が思い込んでいるまやかしに過ぎない。現状に満足できず、足掻いている姿を自由と呼んでいるだけだ」
伝えたいものは伝えたとばかりに先生は満足気に自室に帰っていこうとする。
「いやいやいや」
思わず声をかけ腕を取り引き止めた。
こっそりと抜け出した俺に気が付き、いつ帰ってくるとも知れない中、待っていたなんて信じられるわけがない。
「先生はそれを伝えるためだけこんな夜中にここで待ってたんです?」
「そうだが?」
先生は、だからなんだ?と言いたげに首を傾げている。
「夜間外出していた俺を叱らないんですか?」
「お前は遊ぶのが上手いからな。揉め事を起こさないから怒る理由もない。夜間外出は規則違反だが、規則破りぐらいで一々、叱っても仕方ないだろう。そのぐらいの判別はつく年齢だしな」
呆気に取られて開いた口が塞がらない。信じてくれているのか、なんなのか。なんなのだこの人は。
「それじゃあ、おやすみ」
驚き緩んだ俺の手を先生はするりと抜けて、本当に自室へと帰ってしまった。バタンと扉の閉まる音がした。
あの人が何を考えているのか全くわからない。案外なんにも考えていなかったりして。
あの人の意味あり気な行動は全てどこかズレてるからで、特に深い意味はないのかもしれない。呆れて、追いかける気にもなれなかった。
一つだけ大きなため息を吐いた。ため息に合わせるように梟が鳴いている。
夜も相当更けてしまっている。今日のところは素直に自室に帰ることにした。

ある日の平日。先生に呼び出された。訓練場でフェリクスと試合中だった俺はその手を止めて彼の元へと駆け寄った。
相変わらず変化の乏しい顔は何考えているかわかりゃしない。明るい日の光に照らされた青緑の髪はいつもより明るく見えて新緑のようだった。
「お前の教育方針を変更しようと思ってな。その相談なんだ」
先生の手には俺たち青獅子寮の生徒の成績の書かれた手帳がある。先生は頁をめくり、俺の項目の書かれた頁を開いた。
「今週から魔術と信仰を学んで欲しい」
「どうしてまたそんなことを?」
俺が不思議に思うのも無理はなかった。今現在、俺の手には立派な槍が握られており、パラディンを目指すソシアルナイトだ。
「お前には魔術の才も見えるからゆくゆくはダークナイトがいいのではないかと思ってな」
ダークナイト。騎士系兵種の最上級職にあたる。魔法を制御しながら、馬を駆り戦場を走る能力が必要になる。
確かに魔術を専門で学んだことは無いが、そこまでの苦手意識もない。青獅子寮には魔法を得意とするものが少ないから先生の意図は理解出来たが、何故信仰も必要なのだろうか。ダークナイトの資格試験に信仰は必要ないはずだ。
首を傾げながらも問えば「メルセデスの負担を軽くしてやりたくて」と返ってきた。
確かに、メルセデスは青獅子寮の生命線でもある。彼女の祈りが、癒しがなければ撤退を強いられていた場面も思い起こされる。
「まっ、そういうことなら喜んで」
ここのところ彼女に疲労の影が忍び寄っていたのは知っている。先生も一人でも回復役が欲しいのだろう。
「先生、ここにいたか」
先生の向こう側、訓練場の出入口に金色の髪と青いマントが見えた。ディミトリだ。口振りからして先生を探していたようだ。
「話し中にすまない。実は近隣の村から害獣駆除の依頼がきているんだ」
「害獣か」
殿下の言葉に先生は思案している。
「ああ、農作物を中心に被害にあっているらしい。青獅子寮が中心となって解決に当たって欲しいとセテス殿が」
「せっかく育てた農作物を荒らされちゃ敵いませんから」
近隣の村で育てられた野菜は商人の手を通り、いずれは生徒たちの口へと運ばれる。農作物を荒らされ収穫量が減れば、そのまま士官学校の台所事情もがらりと変わってしまう。
脳裏には悲しげに食事を摂るイングリットの妄想が離れない。食べ物に対する拘りも人一倍強い彼女のことだ。口では取り繕うものの表情は嘘をつけないだろう。
「ディミトリはこのままセテス殿へ報告を、フェリクスは出撃準備を頼む。俺とシルヴァンで生徒を探してくる。見つけ次第、フェリクスの元へ向かうように指示してくれ」
ディミトリとフェリクスは頷き、足早に訓練場を出ていった。俺もその後を追い、先生と手分けして生徒を探す。
三十分後にはフェリクスのところへ合流するように言われていたから戻ってみれば、全員が揃い準備を進めていた。
手分けして探していたとはいえ、闇雲に探していては三十分で生徒を揃えることは難しい。それだけ先生が生徒のことを見て、普段どこにいるのか把握しているということだ。彼の真摯な姿勢を慕う生徒も多く寮外からの編入希望の声もあるという。
「全員出られるか?」
「ああ、問題ない」
先生は全員を見渡し確認する。その声にはディミトリが代表して答えた。

村にはそれはもう歓迎された。士官学生とはいえそれなりの大所帯が派遣されたのだから期待以上だったのだろう。
生徒達は何組かに手分けして森に分け入り、罠を設置していく。これで全てを解決出来る訳では無いがましにはなるだろう。何人かは村に残り、畑の柵をより頑丈なものへ作り替えているはずだ。
「ねえ、シルヴァンあれ……」
そばで警戒していたアネットが空を見上げている。指し示す先には煙が立ち上っていた。村のある方角だ。
「メーチェが……!」
アネットは困惑と焦りと心配に染まりきった顔でこちらを見上げている。
メルセデスだけではない。歓迎してくれた村人たちだって危険にさらされている。
「アネット走れるか!?」
「うん、走る!!」
力強い瞳に問題ないと判断し、先頭を走らせ後を追う。
道無き道を行き、木の根を飛び越えたりと、足場の悪い中での疾走にアネットの息もすぐにあがる。それでも彼女は足を止めなかった。
村の外れまで出たところで野盗と生徒の戦闘が始まっていた。近くの家屋には火が着けられていたが、村全体に及ぶほどではない。野盗を討伐した後に解体しても間に合うだろう。
「お願い!」
「おうさ! 行けますよ!」
アネットの声に弾かれ、野盗の一人へと駆け寄り槍を振るう。一度、二度と振るったあと、野盗にはアネットの風魔法が直撃した。
野盗は気絶したようで動かない。手早く両手と両足を締め上げて転がしておく。
「シルヴァン、アネット、無事か!?」
こちらに気がついた先生が駆け寄ってくる。どうやら野盗の襲撃は止められたようだ。こちらが無傷なことを確認すると彼はほっと息を吐いた。
「先生、メーチェは!?」
「メルセデスは村人たちと奥に避難してもらってる」
すがりつくようなアネットに先生は落ち着いて事実を述べた。その姿に彼女も安心したのか胸をなでおろしている。
先生の説明によれば、野盗の襲撃にいち早く気づいたフェリクスとディミトリが出撃し主犯格の捕縛に成功。今は残った残党の捕縛中だったようだ。
先程、俺とアネットで縛り上げた野盗で最後らしい。
「なんと言うか、お互い間が悪いですね」
「全くだ……」
俺たちは害獣駆除だったはずなのに野盗と戦う羽目になり、野盗側も害獣駆除に居合わせた士官学生がいたばかりに壊滅することになった。
先生はため息を吐きつつも、少し口角が上がっている。思いがけないところで俺の言葉が彼に受けたらしい。
転がしていた野盗を俺が担ぎ他の生徒と合流しようかと話をしていた時、村の奥から慌てた様子のアッシュとアメルセデスが駆けてきた。
「先生! 十歳ぐらいの男の子見ませんでした?」
「探してみたけれど、どこにもいないのよ」
村人たちの話ではこちら側の村外れの近くで遊んでいたはずとのことだ。しかし、俺もアネットもここに来るまでの間にその姿を見た覚えはない。俺達が気づかない間に森に逃げ込んだ可能性もある。
「俺が探してこよう。みんなは残って後処理を進めてくれ」
先生はそう言うと子供を探して森へ入って行ってしまった。残された俺たちは彼の指示に従い、片付けを始めることにした。

片付けはほぼ終盤を迎え、あとは先生と子供の帰還を待つぐらいだ。
日も徐々に傾き出している。夜の森は危ない。傭兵として生きてきたあの人を心配するのは杞憂だとわかっているが、些か戻るのが遅い。
今晩の食材を一緒に収集していたドゥドゥーに声をかける。
「ドゥドゥー、悪いがちょっと先生を探してくるわ。殿下に報告しておいてくれ」
「それは構わないが」
「んじゃ、頼んだぜ!」
すぐに帰ってこいと物言いたげな視線は気づかなかった振りをして食材を渡し厩舎へ向かった。俺たちの乗ってきた馬も繋がれている。いつも世話になっている子をひと撫ですれば愛想良く鼻先を擦りつけてくる。準備をして背に跨がればすぐに駆け出してくれた。
森の中、踏みならされた道を馬で行く。驚くくらい生き物の気配がない。なにかから逃げているのか、鳥も兎も見当たらない。
不思議に思いつつも歩を進めていると腹の底から響くような鳴き声が森を震わせた。馬も驚いたようで前足を上げ、足をばたつかせた。聞き覚えがある。魔獣の鳴き声だ。
なんとか馬を宥めていると前方から小さな少年がこちらに走ってきた。行方知れずとなっていた子供だろう。膝や腕には細かい擦り傷があり、顔は涙と埃でぐちゃぐちゃだ。
馬から降り、膝をつき子供の話を聞いてやる。子供は混乱しており要領を得なかったが、どうやら先生一人で魔獣に立ち向かっているらしい。隙をついて逃してくれたが、振り向くなと言われたから何もわからない、と子供は再び泣き出してしまった。子供の肩を抱き、落ち着くのを待つ。背中をさすってやれば徐々に呼吸は穏やかなものに変わっていった。
「俺はさっきの人の様子を見てくるから、一人で帰れるよな?」
少年はふるふると力なさそうに首を左右に振る。
すると合わせたように子供が走ってきた方角から地鳴りのような大きな音が響く。戦闘は先ほどよりも激しさを増しているようだ。
「……一人で戻る」
「偉いな」
俺と一緒に怪物のところへ戻るか、一人で村に戻るかを秤にかけた少年は一人で戻ることを選んだ。その選択を褒めるように頭を撫でれば瞳に力が戻る。よろめきながらも村への道を走り出した少年を見送る。大事に発展したとしても少年が村に戻れば応援が来るだろう。
再び馬へ跨り、地響きのする方へ向かう。
森を抜ければそこは激しい戦闘により広場になっていた。
真ん中には大きな体躯の魔獣が爪を振り回している。対する先生は魔獣に比べると小さな体を活かして死角になるところから少しずつ攻撃している。先生の背中には見慣れない傷が多数増えている。先ほどの子供をかばった傷だろう。あまりのお人好しさに呆れが出る。
魔獣が大きく叫ぶと多数の火炎が降り注ぐ。火炎は地面に着弾すると爆発を起こし土煙が舞う。
シャラシャラと金属が擦れ合う音がした。立ち昇る煙の中から天帝の剣が刀身を伸ばし、魔獣に絡みついている。
天帝の剣。魔獣に対して有効な、先生の持つ炎の紋章と呼応する彼にしか使えない英雄武器だ。
土煙が晴れ、徐々に彼の姿があらわになる。
先生が手を引けば、刃が魔獣の体を刻んだ。しかし決定打にはならなかったようで、その体躯が倒れることはなかった。
魔獣の爪が牙が咆哮が先生を追い詰めていく。傷口が増え艶やかな赤が舞う。あの場に踏み込む何かが足りない。
魔獣が再び大きく吠えた。呼ばれるように幾つもの火炎が先生めがけて降る。立ち昇る煙を振り払うように先生が飛ぼ出した。彼は魔獣の首元へもぐりこみ、その刀身を振り上げた。英雄の遺産は深々と魔獣の首へ埋まっている。
魔獣は身を竦ませるような断末魔を残して大地へと倒れた。魔獣が倒れた衝撃で再び土埃が舞う。
先生の仕草でするりするりと順番に剣は元の形へと戻っていった。
彼の元へと歩み寄る。かすり傷や火傷、土埃にまみれてもなお彼は美しい。血を乱暴に拭う粗野な仕草すら様になる。
なぜ彼は綺麗事ばかりを並べるのだろう。自身の身を危険に晒してまで子供をかばうなんてことをするのだろう。野盗の襲撃の際に行方不明になる子供なんてざらにいる。森に分け入り帰ってこない子供だっている。見捨てる選択肢だってあったはずだ。すぐさま俺達生徒を呼ぶことだってあったはずだ。
あの日、蓋をしたはずの気持ちがぐらりと首をもたげた。
「シルヴァン、助かった」
ぐらりぐらりとあの日の気持ちが渦巻いている。
紋章を持ちながらそんな社会とは無縁に生きてきてたあんたのことが……
自由に生きることができるなんて、知らずにいられれば幸せだったのだろうか。
空を自由に飛び回ることのできるあんたが心の底から羨ましくて。妬ましい。憎らしい。
懐の短刀を抜いた。短刀が西日を浴びて妖しくも美しく光っている。
ふらりと近寄って彼の白い首筋へと短刀を突きつけた。トクトクと流れる鼓動すらも感じられそうだ。
先生はゆっくりと視線を首筋、短刀へと移し、最後にはこちらを射抜いた。西日が彼を照らしている。深緑色の髪に朱色が混じり、日の下で見た時よりも暗く影を落とした。
「どうした? 殺したかったんだろう?」
彼は喉元を晒すように顎を上げる。彼の行為にカッと頭に血が上るのを感じた。殺したいほど憎いと言われていた相手から短刀を突きつけられて、こうも冷静に煽れるものだろうか。呆れが心を満たした。
彼の視線を受け止め、見つめ返す。瞳の奥には他意もなにも見えない。本気で殺さないのかと聞いている。殺されることへの恐怖も悔しさもないのだ。
「はあ……」
短刀を下ろして懐へとしまった。
この人はいつだって裏も表もなく、本気なのだ。本気で生徒と向き合い、生徒の意思を尊重しようとしている。ただ、人との交流少なく生きてきたため、やり方が独特すぎるだけなのだ。
「せーんせ、冗談ですよ」
笑いながら言ってやれば目を皿のようにしてきょとんとこちらを見つめている。
「そうか」
瞬きの隙に先生の顔はいつもの何を考えているのかわからない無表情へと戻ってしまった。
「先生! シルヴァン!」
遠くからイングリットの声が聞こえる。見上げれば沈みきった紺色の空の中に白い天馬が辛うじて見えた。

『いつかの誕生日』

教室の中を初夏の涼やかな風が通り抜けた。じんわりと汗の滲む肌を撫ぜる。襟元を扇ぎ風を送り込めば少しだけ体温が下がった気がした。
この春に青獅子寮に赴任した先生は浮世離れした元傭兵だった。教師をするのは初めてだと聞いていたが、教えるのも上手く、生徒達に慕われだしている。まだ二ヶ月しか関わっていないが悪い人間ではないことはシルヴァンもわかっていた。
暗い緑を落としたような濃紺の髪が風に揺れている。髪と同色の瞳は手元の教本に落とされていた。切れ長の涼やかな目元が印象的な美人。女性だったのならすぐさま声をかけていただろう。
「では、今日はここまで」
彼の声に少し遅れるようにして鐘が鳴る。途端に教室内は喧騒に包まれた。教材を片付ける音、椅子をしまう音、生徒たちの話し声。
お昼は何にしようか。なんて会話が聞こえてきたものだから釣られてお昼の献立を考えてしまった。ビーフシチューなんてどうだろうか。
とろみのある黒いスープに浮かぶ人参とじゃが芋。長く煮込まれた牛肉は口の中でほろりとほどける。隠し味に入れられたワインが深みのある味に仕上げている。硬めのパンをスープに浸せば、大きめの空洞をスープが満たすだろう。ぱくりと口に運べば、小麦の風味とビーフシチューのコクが合わさり広がっていく。
お昼の献立はこれにしよう。ビーフシチューで決まりだ。
片付け始めた教材の上に影が落ちる。見上げればベレト先生がこちらを見下ろしていた。
「シルヴァン、これを」
そう言って手渡されたのはラベンダーの花だった。丁寧に刈り取られたラベンダーは切り口に綿が巻かれており、子供が喜びそうな可愛らしい包装紙で簡易的に包まれている。細い茎の先で艶やかに咲く紫色の小さな花弁が美しい。ラベンダー独特の香りがふわりと広がった。
「今日が誕生日だろう? 花を贈るといいと聞いたから」
先生は何も無い空間をちらりと流し見たが、すぐに視線をこちらに戻した。
「ありがとうございます。部屋に飾りますね」
まだ学生ではあるものの、こんな年にもなって誕生日プレゼントを貰うなんて思いもしなかった。
深く息を吸えば胸の中に香りが満ちる。ゆっくりと落ち着くような気がした。
赴任してすぐだというのに、生徒の誕生日を把握し贈り物をする。なるほど確かに。生徒達に慕われるのもわかる気がした。

『貴方とワルツを』

季節は星辰の節。秋も過ぎ、冬が深まりゆく季節だ。
教室のそばの中庭では生徒たちが思い思いに休憩している。鈍く重い空は日の光を届けてくれず、雪でも降りそうな気配があった。
夏は暑くて嫌いだが、雪の降るような冬も好きにはなれなかった。真冬の井戸の水は突き刺さるように痛かった。信じていたはずの兄に突き落とされたショックから泣くことも、叫ぶことも忘れてしまっていた。あの冬を思い出してしまう。
「シルヴァン、魔法の習得進度は順調か?」
担任のべレト先生が変わらずの無表情でこちらに歩いてきた。片手にはいつもの手帳がある。生徒達の進捗を確認して回っているのだろう。熱心な先生だ。そんなところが彼が多くの生徒に慕われる原因なのだろう。
「先日、アローを使えるようになったところですよ」
アローは風を操る魔法の一種だ。炎の方が幾分か得意ではあるもの、どうにか扱えるようにはなった。
彼はふむふむと頷きつつ、手元の手帳に書きつけている。
「それよりも今は舞踏会ですよ。対抗戦の白鷲杯もあるんですよね?」
先生は走らせていた筆をピタリと止めた。心なしか焦っているようにも見られた。いつもの無表情なので気のせいかもしれない。
「で、先生。俺たちの学級からはどいつを出すんです?」
深緑の瞳がこちらをじっと捉えた。
「頼めないだろうか?」
「え、俺?」
思わず聞き返してしまった。先程と変わらない新緑の瞳がこちらを捉えている。
「はあ、まあ、別にいいですけど。女の子にいいとこ見せる機会だしな」
先生は俺の言葉に少しだけ口角を上げ、雰囲気を和らげた。表情の乏しい男だが、よくよく観察していればその違いにも気がつけるようになった。
「じゃあ、練習しよう」
「え!? 今からですか?」
先生が真顔で言うものだから驚いて聞き返す。何か問題でもあるのか?とでも言いたげにこちらを見つめるばかりだ。俺に予定があるとか考えないのだろうか。実際に予定は無いので問題もないのだが。
「構いませんけど……」
先生は手帳を仕舞うと両手を胸の位置で広げた。どうやら手拍子で拍を取ってくれるらしい。
彼の前で舞踏の構えをとる。左手を上げる。右手は女性の肩に手を添えるように胸元に。
「一、二、三、一、二、三……」
たんたんたん。たんたんたん。
まずは基本的なステップを。
先生の手拍子に合わせて右足を出す。次に左足を滑らせるように出し、方向を変える。三歩目は左足に添えるように置く。回りながら円を描くようにステップを踏む。以前習ったっきりで修道院に来てからは踊ったことがなかったが、それなりに覚えているもんだ。足を縺れさせることもない。
「きれいだな……」
「!?」
手拍子を打つ先生の瞳がゆるりと上気する。端から見ている俺でもわかるほどに彼は喜んでいる。深緑の瞳が揺らぎ、輝いている。熱のこもった視線が刺さる。
「男にそんな熱心に見られても嬉しくないですよ」
彼は俺の言葉を聞いて、はたと正気に返ったようにいつもの無表情に戻ってしまった。
「いや、その、シルヴァンがあまりにもきれいに踊るものだから、頼んでよかったなと」
彼の言葉にじわりと暖かくなる。今は真冬の屋外だというのに。
踊りの足を止めれば、額にじわりと汗が滲む。
「先生って踊れるんですか?」
「踊りとは無縁の傭兵業だったからな」
まあ、予想通りの答えではある。
「あんた顔はいいんだし、踊れるようになっておいて損はないと思いますよ」
少なくとも大司教に目を付けられている以上、政治に引っ張られるのは明らかだ。それに何より、生徒の誰かが彼を誘うだろう。別の寮からの変寮希望の生徒もいたという。彼がそれを断っている場面に遭遇したこともある。
「そういうことなら少しだけ、基本的なものだけでいいから教えてくれないか?」
「俺の方がでかいですし、練習になるかどうかわかりませんよ?」
「構わない。俺がシルヴァンと踊りたいんだ」
「そんな言葉どこで知るんですか……」
「メルセデスの貸してくれた本で」
「生徒にそんなこと言っちゃダメですよ。勘違いするやつがでますから。特に女生徒には」
「気をつけよう」
わかったのかわかっていないのか。気の抜けたような返事だった。
「では、左手を上げてください」
上げられた先生の左手に右手を重ねる。ゆっくりと優しく握れば、緩やかに返された。
「右手を相手の肩甲骨へ添えるようにしっかりと支えてください」
先生が右手を添えたのを確認してからもたれるように上体を反らす。
「それが基本の姿勢です」
先生は興味深げに自身の左手と俺の肩口を見比べている。
「ステップは知ってます?」
「さっきシルヴァンが踊っていたものなら少しだけ覚えた」
上々である。
「好きに踊ってみてください。合わせますよ」
こちらで拍をとれば、彼は足を踏み出した。先程、俺が見せていたステップの冒頭三種を綺麗に踊ってみせる。飲み込みは良い方だとは思っていたがここまでとは。素直に感心する。
涼やかな瞳を伏せられたまつ毛が縁どっている。普段と変わらぬ無表情だ。女生徒の中には彼に夢みている者も多い。いつもと変わらないように見えるが、重ね合わせた手から緊張が伝わる。化け物の様な強さと無表情に忘れがちだが、彼も人なのだ。はじめてのことに緊張だってする。
意識して口にする拍を遅くすれば、手の平から伝わる緊張が緩まる。しばらくすれば拍を口にしなくても息が合うようになった。
「俺がいつまでもこちらで踊っていればシルヴァンの練習にならないな」
先生は足をゆっくりと止めた。離れていく先生の左手を名残惜しげに握ろうとして踏みとどまった。その時になってようやっと自分が踊ることを楽しんでいたのだと気がついた。
「変わろう」
先生は俺が何か言うのを待たずに姿勢を解き、今度は右手を掲げた。
「あんたねぇ、絶対混乱しますって。やめた方がいい」
「大丈夫だ」
力強く見つめ返す先生に仕方なく付き合うことにする。なんだかんだ我の強い彼はきっと折れない。
左手を差し出せばそっと右手で握り返される。右手で肩甲骨のあたりを支えればしなだれるように上体を任された。
「では三数えた後にさっきのステップをお願いしますね」
先生が縦に首を振ったのを確認してから数え始める。
「一、二、三。一、二……」
ぐらり。先生の体躯が大きく傾いた。重ねた左手で引き上げようと力を込めたが遅く、先生は地面に倒れ込んでしまう。
「ほら、言ったでしょう?」
芝生に尻をついたままの先生に右手を差しだし、ぐっと勢いよく引き上げた。
先生が転けた原因は単純に女性側の踊りに変換できなかったことだ。男性側が踊れたからといって女性側が踊れるとは限らない。左足を踏み出すべきところで右足を引かなければならないのだから、転んで当然だ。
「シルヴァンは女性側を踊ったことあるのか?」
「いやさっき初めて踊りましたけど?」
「お前はもっと真面目に授業を受けろ」
責めるような目付きが鋭く刺さる。くどくどと長くなりそうなお小言に思わず明後日の方向へ視線を投げた。
空は未だに重い雲を敷き詰めている。